嵯峨天皇(出典:Wikipedia)
今回は嵯峨天皇を中心にみていきましょう。
みなさんは嵯峨天皇というと、どういう人を想像しますか?
漢詩や唐風書道に優れた文化人、というのが私の印象ですね。
また、幼い頃から優秀で天皇の素質があると言われていて、父である桓武天皇からとても可愛がられていたようです。
一方で、自身の兄である平城上皇とうまくいかなくなり、最終的に対立してしまったという面も持ち合わせています。
そこで今回は、「嵯峨天皇と兄・平城上皇との間で何があったのか?」についてみていきましょう。
あと嵯峨天皇はけっこう重要な政策を行なっていますから、「嵯峨天皇はどんなことを行なったのか?」についてもみていきたいと思います。
それではさっそくみてみましょう!
年表で確認!平城・嵯峨・淳和天皇の時代の流れ
『哭澄上人詩』伝嵯峨天皇筆(出典:Wikipedia)
平城・嵯峨・淳和天皇の時代を年表にしました。
さーっと確認してみましょう。
平城天皇と藤原薬子
ではまず、嵯峨天皇の話をする前に、その前の天皇で嵯峨天皇の兄でもある、平城天皇の話から。
平安時代最初の天皇は桓武天皇ですが、その息子にあたるのが平城・嵯峨天皇です。
平城天皇は親王時代に、藤原家から奥さんをもらっていました。
そのとき、その奥さんのお母さん、つまり平城天皇にとっての義母が、女官として親王のもとで働くようになります。
そしてこの義母と親王(平城天皇)は恋愛関係に発展してしまうんですね。
つまり、不倫です。
これを嫌った父・桓武天皇は、一時彼女を追い出します。
しかし806年、桓武天皇がなくなり平城天皇が即位すると、この義母は呼び戻され、再び平城天皇の寵愛を受けるようになりました。
この義母が、のちに乱の中心人物の一人となる藤原薬子です。
平城天皇に呼び戻された薬子は、尚侍という天皇の秘書に任命されます。
尚侍は天皇と臣下の間の取り次ぎ役のようなものです。
天皇の命令を臣下に伝えたり、臣下が天皇に渡す文書を取り次いだりしました。
天皇からの寵愛をぞんぶんに受けている薬子が尚侍になる…つまり、薬子が言うことは天皇が聞き入れるし、薬子が役所も押さえつけることができる、ということ。
なんでも薬子の思い通りなるわけです。
これを利用して、薬子の兄・藤原仲成は出世し、威張り散らすようになります。
しかし、天皇が即位してからわずか3年で、平城天皇が病のために弟・嵯峨天皇へと位を譲ります。
権勢が衰えることを心配した薬子と仲成は、平城上皇とともに平城京へ移りました。
ところで、どうして平城天皇は自身の息子ではなく弟に即位させたんだ?と思った方はいませんか?
疑問に思ったそこのあなた、鋭いですね〜。
ちなみに高校時代の私はちっとも思いませんでした。笑
(ここから先は余談になりますので、興味のない方は次の段落へどうぞ。)
実は、平城天皇はある程度年齢のいった息子がいたにも関わらず、天皇に即位してからすぐに、次期天皇を嵯峨天皇にすると言ってるんですね。
これは亡くなった桓武天皇の気持ちを察してそうしたと言われています。
ここでお気づきになった方もいると思いますが、嵯峨天皇が即位したときは兄弟間の対立はなかったんですよ。
ちなみに、次期天皇を自分にしてくれたお返しに、嵯峨天皇が次期天皇に平城上皇の息子を指名しています。
なんでこじれたんですかね?
嵯峨天皇と平城上皇の対立【薬子の変】
さて、兄から譲位された嵯峨天皇ですが、即位してから困ったことが起こります。
兄・平城上皇側が朝廷内で上皇勢力を強めようとしているのではないか?と思われることを行なったんですね。
一説によると、薬子や仲成が策をなしたと言われています。
平城上皇が重祚してもう一度天皇になれば、再び実権を握れますからね。
それに対抗しようと策をなすのですが、上皇側もそれで黙ってはいません。
そしてどんどん対立が激しくなっていきます。
このときの様子を、2箇所に朝廷があるような状態だということで、二所朝廷と呼んでいます。
その中で嵯峨天皇は新たな役職を作ります。
蔵人所です。
蔵人所の説明に入る前に、みなさん、思い返してみてください。
天皇の秘書役の人を尚侍と言い、この役職についている人は藤原薬子でしたね?
しかし薬子は平城京に移ったことに加え、平城上皇側の人間。
仕事は滞るわ秘密は漏れるわで、嵯峨天皇の秘書としては不適当です。
だから天皇の秘書として、新たに蔵人所をつくります。
このとき、蔵人所の長官・蔵人頭に任命されたのは、藤原不比等と巨勢野足の2人です。
さて、その後も両者のみぞはますます深まり、ついに平城上皇は平城京に遷都しろと言い出します。
それを皮切りに、嵯峨天皇はまず薬子の兄・仲成を射殺。
仲成の死を受けて薬子と平城上皇は挙兵するのですが、嵯峨天皇はこれをおさえます。
逃げきれないと知った薬子は服毒して亡くなり、平城上皇は出家します。
これを平城太上天皇の乱(薬子の乱)と言います。
こうして兄弟の争いは終わりを迎えました。
2つの令外官の設置【蔵人所と検非違使
さて、ここからは政策について話していきますよ。
覚えなきゃいけないものは3つです。
令外官の設置、弘仁格式の成立、令義解の完成です。
まずは令外官の設置について解説していきます。
令外官とはなんぞや?という話からするんですが、その前に律令について説明します。
少し長いので、眠くなる方はコーヒーでも飲みながら読んでくださいね。
奈良時代から平安時代まで、日本は律令という法律にもとづいて政治を行なっていました。
じゃあ律令に従って政治をするぞー!って思って律令だけ見ても、政治はできません。
律令には大まかにしか書かれていないので、具体的にどうすればいいか分かんないんですよ。
現代に置き換えて考えてみましょう。
例えば日本国憲法ってありますよね、国の最高法規の。
その中に公務員の選挙について決まりが載っています。
「公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。」(第15条3項)
ではこの決まりだけで、実際に選挙を行うことはできるでしょうか?
成年者って何歳からか分からないし、普通選挙っていったってどうやってやればいいの?ってかんじに、具体的に何がOKで何しちゃダメなのかよく分かりません。(私は笑)
だから法律を作って、どうやって選挙をするか、具体的に細かいことを決めているんです。
話を戻しますと、これとおんなじように、律令だけでは細かいことが決められていないので、政治ができません。
そこで律令の修正や補足をする法・格や、律令に載っていることを実際に行うときの詳細をかいた規則・式といったものが必要となります。
律令のうち、刑法以外の決まりについて書いてある令には、政府にこんな官職を置くべし!ってことについても定められているんですね。
でも時代が移り変わるうちに、令にはないけどこの官職が必要…!っていうのが出てきちゃったんです。
そこで令には定められていない新しい官職を作りました。
このような官職を令外官といいます。
嵯峨天皇が新しく定めた令外官は2つです。
1つは先ほど出てきた蔵人所。
これは天皇の秘書のような役職です。
蔵人所の長官を蔵人頭と言いますが、一番最初に蔵人頭に任命されたのは藤原冬嗣と巨勢野足でしたね。
もう1つの令外官は検非違使です。
検非違使は平城太上天皇の変のあと、京都の治安維持のために作られた役職です。
非違を検察する使、つまり法律に外れたこと(=非違)をしたかどうか、細かく調べる(=検察)つかい(使)ということです。
律令制の整備【弘仁格式と令義解の完成】
この時代、法律の整備も進みました。
1つは格式を整理してまとめた弘仁格式を完成させたことです。
先ほど、律令を補足・修正する法として格式があると話しましたね。
嵯峨天皇の時代までに何度も格や式ができたのですが、その数が多くなってしまったんです。
そこで数多い格と式をまとめました。
年号が弘仁のときにまとめられた格式だから、これを弘仁格式と言います。
もう1つは養老令の注釈書・令義解を作ったことです。
奈良時代に律令を4度制定してきました。
その中で養老律令は一番最後に制定された律令です。
このうち、政府の命令で清原夏野らがまとめた養老令の注釈書を、令義解と言います。
令の義解、つまり令の内容を明らかにした(=義解)、ということです。
ここで注意したいのが、『令集解』というものもあることです。
これは惟宗直本が個人的に養老令の解釈を集めてまとめたものなんですね。
令の集解、つまり令の色々な解釈を一つに集めた(=集解)、ということです。
政府が公認した令の内容の解釈書が令義解、 個人的に令のいろんな解釈を集めたというのが令集解、 ということです。
(2つとも、令だけの解釈です、律は含まないので注意!)
この『令集解』が完成する前の823年、嵯峨天皇は弟・淳和天皇に位を譲っています。
そしておおよそ20年後に、嵯峨上皇は亡くなりました。
薬子の変はどうして起こったの?平城・嵯峨・淳和天皇の時代をわかりやすく解説 まとめ
いかがだったでしょうか?
今回、特に覚えてもらいたいのは令義解と令集解の違いです。
この2つは名前も内容も似ているため、よく混同しやすいです。
逆に言えば、覚えてしまえば周りと点差をつけることができるところだと言います。
夢に出てくるくらい、頭に叩き込みましょう!