桓武天皇(出典:Wikipedia)
さて、今回は平安時代初期の話をしたいと思います。
約400年間という、時代の中で最も長い間続いた平安時代。
この平安時代の最初の天皇は桓武天皇でした。
桓武天皇は政治改革を多く行なった天皇の1人、つまり覚えることがたくさんあることを行なった天皇の1人ということですね。
とくに桓武天皇が行なった律令制の改革については、整理できていない人もいるのではないでしょうか?
そこで今回、「桓武天皇はどんな政治改革をしたのか?」について、解説していきたいと思います。
さっそくみていきましょう!
年表で確認!桓武天皇の時代の流れ
平安京の模型の一部(出典:Wikipedia)
桓武天皇の時代を年表にまとめました。
さーっと目を通してみてください。
2度の遷都 平安京に遷都するまで
桓武天皇の話に入る前に、桓武天皇が即位する前の流れを少し。
奈良時代の最後、女帝・称徳天皇とその寵愛を受けていた僧・道鏡によって、政治は混乱していました。
称徳天皇が亡くなって次に即位したのが光仁天皇です。(770年)
ここで重要なのが、光仁天皇は天智天皇の孫、というところです。
天智天皇は飛鳥時代に蘇我氏を滅ぼし、大化改新を行った人でしたね〜。
天智天皇が亡くなったあと、天皇の位の争奪戦である壬申の乱が起こり、勝って天皇になった人が、天智天皇の弟である天武天皇。
こののち、奈良時代の男性の天皇は、天武天皇の子孫である天武系の皇族でした。
光仁天皇が即位したことによって、天武系から天智系に変わったんですね。
さて、光仁天皇ののちに息子の桓武天皇が即位します。(781年)
この桓武天皇、まず最初に行ったことは遷都です。
784年、平城京から長岡京に遷都するんですね。
都を移して都づくりを着々と進めるのですが…当時都づくりを担当していた役人のトップだった藤原種継という人が暗殺されてしまいます。
犯人は分かったんですが、この犯人が桓武天皇の弟・早良親王に仕えていたことから、早良親王も事件に関わったとされて捕まってしまいます。
淡路に流されることが決まるのですが、早良親王は納得いきません。
自分は無実なのですから。
それから早良親王は何も食べず、10日後に死んでしまいます。
そして桓武天皇は早良親王の怨霊に悩まされることになります。
自分の皇后が死に、息子が病に侵され…悩んだ桓武天皇は怨霊から逃れるために、また遷都することにします。
長岡京に遷都してから10年後のことでした。
遷都した先は京都。
平安京です。
律令制の見直し
ここまで読んで、「桓武天皇、遷都しかしてないじゃんか!」と思った方、ご安心ください、桓武天皇は数々の政策を行なっています。
桓武天皇が行った政策は大きく分けて2つ、律令制の見直しと蝦夷討伐です。
では律令制からみていきましょう。
奈良時代の最後、農民は重すぎる負担に苦しんでいました。
そのためその土地から逃げ出したり、男より負担の軽い女と性別を偽って戸籍に登録する人が増えていました。
この農民の負担を減らそうと、桓武天皇は律令制を見直しています。
当時、律令制の税の一つである兵役によって、国内にいる21〜60歳の男性の一部は、各国にある軍団に所属しなければならなかったんですね。
戦いに備えるためです。
しかし、国司はこの軍団を自分勝手な用でこき使っており、軍団に所属する兵士は疲弊していました。
そのため桓武天皇は、特定の地域だけ残して、その他の国では軍団を廃止します。
代わりに作った制度が、健児の制です。
健児は各国に配置された兵士のことで、郡司や地方の有力者の子弟を採用しました。
また、桓武天皇は他の税の負担も軽くしています。
年間で60日、国内で肉体労働を行う雑徭という税がありましたが、その日数を半減して30日にしました。
さて、農民の負担を減らすことには成功しましたが、他にも解決しなければならない問題がありました。
国司の交代がうまくいっていないという問題です。
律令制で地方の国を収めている役人のトップが国司でしたね。
国司は中央で任命されて各国に派遣されるのですが、この当時、国司の交代がうまくいっていませんでした。
なんで国司が交代するだけなのにうまくいかなくなるの?って思ったそこのあなたのために、どうやって国司の交代が行われるか説明しますね。
そんなの完璧だぜ!って方は1段落分、飛ばしてください。
国司が交代するときは、新しく国司になる人が前の国司に解由状という書類を渡すんですね。
この解由状というのは、前の国司はちゃんと仕事をしてましたよ、ちゃんと引き継ぎしましたよ、ってこと証明する書類です。
この解由状を前の国司が中央政府にいる上司に渡すことで、前国司だった人は次の役職が与えられる…というシステムだったわけです。
しかし、もし新しく任命された国司と前に任命された国司がトラブルが起こったら? この交代がうまくいかないんですね。
他にも、当時の国司は不正をかなり行っていたので、この不正が原因となって交代がうまくいかないこともあったそうです。
そこで桓武天皇は、国司交代のときに不正やトラブルを防ぐために、解由状をチェックする役職を作ります。
それが勘解由使です。
他にも、桓武天皇は、班田についても見直ししました。
律令制では、人々に耕させる農地・口分田を政府が与えていましたね。
この口分田は,6年ごとに分け与えていたのですが,桓武天皇はこれを12年ごとに変えています。
蝦夷討伐と徳政論争
少しさかのぼって、桓武天皇の父・光仁天皇の時代。
東北地方にいた蝦夷に、朝廷が東北地方で拠点としていた多賀城を焼かれてしますんですね。
そこで桓武天皇は、蝦夷を討伐することに力を入れます。
3回にわたって東北へ兵を出すのですが、最初の2回は失敗してしまいました。
そこで軍の総大将である征夷大将軍に任命されたのが坂上田村麻呂です。(797年)
田村麻呂が3回目の出兵を行い、801年、ついに蝦夷の族長である阿弖流為が降伏します。
そののち、胆沢城を作り、鎮守府を多賀城から胆沢城へ移しました。
このように、桓武天皇はさまざまな政策を行なってきたわけですが、実際に都づくりや戦争を行うのは民ですね。
長い間行っていたら当然民は疲弊してしまいます。
そこで804年、桓武天皇は、民にとって良いのはどういう政治か?について,藤原緒嗣と菅野真道に議論させるんですね。
これを徳政論争と言います。
この話し合いで藤原緒嗣の言った、「方今天下苦し むところは軍事と造作なり」というセリフは有名です。
「今、民が苦しんでいるのは軍事と造作、つまり蝦夷討伐と平安京の造営だ!」ってことです。
この話し合いを受けて、桓武天皇はこの2つの事業を中止することにします。
そしてこの2年後、桓武天皇は亡くなりました。
桓武天皇はどんな政治改革をしたの?桓武天皇の政治をわかりやすく解説 まとめ
いかがでしたか?
桓武天皇はさまざまな政策を行ってきましたが、大きく分けると上の3つです。
その中で、律令制の見直しと蝦夷討伐については、試験で重要な範囲になっています。
何を行なったのかを自分で説明できるようにしてみてくださいね。