高校日本史攻略の部屋

日本史赤点常習犯でも大丈夫!読むだけで50点以上あがる簡単解説ブログ

桓武天皇はどんな政治改革をしたの?桓武天皇の政治をわかりやすく解説

f:id:nihonshi0:20201025175456j:plain

桓武天皇(出典:Wikipedia

 さて、今回は平安時代初期の話をしたいと思います。

 

約400年間という、時代の中で最も長い間続いた平安時代

この平安時代の最初の天皇桓武天皇でした。

桓武天皇は政治改革を多く行なった天皇の1人、つまり覚えることがたくさんあることを行なった天皇の1人ということですね。

とくに桓武天皇が行なった律令制の改革については、整理できていない人もいるのではないでしょうか?

 

そこで今回、「桓武天皇はどんな政治改革をしたのか?」について、解説していきたいと思います。

さっそくみていきましょう! 

 

   もくじ   
  1. 年表で確認!桓武天皇の時代の流れ
  2. 2度の遷都 平安京に遷都するまで
  3. 律令制の見直し
  4. 蝦夷討伐と徳政論争
  5. 桓武天皇はどんな政治改革をしたの?桓武天皇の政治をわかりやすく解説 まとめ

 

 年表で確認!桓武天皇の時代の流れ

f:id:nihonshi0:20201025175653j:plain

平安京の模型の一部(出典:Wikipedia

桓武天皇かんむてんのうの時代を年表にまとめました。

さーっと目を通してみてください。

f:id:nihonshi0:20201025202153j:plain
 

 2度の遷都 平安京に遷都するまで

f:id:nihonshi0:20201025180507j:plain

長岡京跡(出典:Wikipedia

 桓武天皇かんむてんのうの話に入る前に、桓武天皇かんむてんのうが即位する前の流れを少し。

 

奈良時代の最後、女帝・称徳天皇しょうとくてんのうとその寵愛を受けていた僧・道鏡どうきょうによって、政治は混乱していました。

称徳天皇しょうとくが亡くなって次に即位したのが光仁天皇こうにんてんのうです。(770年)

ここで重要なのが、光仁天皇こうにんてんのう天智天皇てんじてんのうの孫、というところです。

 

天智天皇てんじてんのう飛鳥時代蘇我氏を滅ぼし、大化改新を行った人でしたね〜。

天智天皇てんじてんのうが亡くなったあと、天皇の位の争奪戦である壬申じんしんの乱が起こり、勝って天皇になった人が、天智天皇てんじてんのうの弟である天武天皇てんむてんのう

こののち、奈良時代の男性の天皇は、天武天皇てんむてんのうの子孫である天武てんむ系の皇族でした。

光仁天皇こうにんてんのうが即位したことによって、天武てんむ系から天智てんじ系に変わったんですね。

 

さて、光仁天皇こうにんてんのうののちに息子の桓武天皇かんむてんのうが即位します。(781年)

この桓武天皇かんむてんのう、まず最初に行ったことは遷都です。

784年、平城京へいじょうきょうから長岡京ながおかきょうに遷都するんですね。

都を移して都づくりを着々と進めるのですが…当時都づくりを担当していた役人のトップだった藤原種継ふじわらのたねつぐという人が暗殺されてしまいます。

犯人は分かったんですが、この犯人が桓武天皇かんむてんのうの弟・早良親王さわらしんのうに仕えていたことから、早良親王さわらしんのうも事件に関わったとされて捕まってしまいます。

淡路に流されることが決まるのですが、早良親王さわらしんのうは納得いきません。

自分は無実なのですから。

それから早良親王さわらしんのうは何も食べず、10日後に死んでしまいます。

 

そして桓武天皇かんむてんのう早良親王さわらしんのうの怨霊に悩まされることになります。

自分の皇后が死に、息子が病に侵され…悩んだ桓武天皇かんむてんのうは怨霊から逃れるために、また遷都することにします。

長岡京ながおかきょうに遷都してから10年後のことでした。

遷都した先は京都。

平安京へいあんきょうです。

 

 律令制の見直し

f:id:nihonshi0:20201025180629j:plain

 

ここまで読んで、「桓武天皇かんむてんのう、遷都しかしてないじゃんか!」と思った方、ご安心ください、桓武天皇かんむてんのうは数々の政策を行なっています。

桓武天皇かんむてんのうが行った政策は大きく分けて2つ、律令りつりょう制の見直し蝦夷えみし討伐です。

では律令りつりょう制からみていきましょう。

 

奈良時代の最後、農民は重すぎる負担に苦しんでいました。

そのためその土地から逃げ出したり、男より負担の軽い女と性別を偽って戸籍に登録する人が増えていました。

この農民の負担を減らそうと、桓武天皇かんむてんのう律令りつりょう制を見直しています。

 

当時、律令りつりょう制の税の一つである兵役へいえきによって、国内にいる21〜60歳の男性の一部は、各国にある軍団ぐんだんに所属しなければならなかったんですね。

戦いに備えるためです。

しかし、国司はこの軍団ぐんだんを自分勝手な用でこき使っており、軍団ぐんだんに所属する兵士は疲弊していました。

 

そのため桓武天皇かんむてんのうは、特定の地域だけ残して、その他の国では軍団ぐんだんを廃止します。

代わりに作った制度が、健児こんでいの制です。

健児こんでいは各国に配置された兵士のことで、郡司や地方の有力者の子弟を採用しました。

 

また、桓武天皇かんむてんのうは他の税の負担も軽くしています。

年間で60日、国内で肉体労働を行う雑徭ぞうようという税がありましたが、その日数を半減して30日にしました。

 

さて、農民の負担を減らすことには成功しましたが、他にも解決しなければならない問題がありました。

国司の交代がうまくいっていないという問題です。

律令りつりょう制で地方の国を収めている役人のトップが国司でしたね。

国司は中央で任命されて各国に派遣されるのですが、この当時、国司の交代がうまくいっていませんでした。

なんで国司が交代するだけなのにうまくいかなくなるの?って思ったそこのあなたのために、どうやって国司の交代が行われるか説明しますね。

そんなの完璧だぜ!って方は1段落分、飛ばしてください。

 

国司が交代するときは、新しく国司になる人が前の国司解由状げゆじょうという書類を渡すんですね。

この解由状げゆじょうというのは、前の国司はちゃんと仕事をしてましたよ、ちゃんと引き継ぎしましたよ、ってこと証明する書類です。

この解由状げゆじょうを前の国司中央政府にいる上司に渡すことで、前国司だった人は次の役職が与えられる…というシステムだったわけです。

しかし、もし新しく任命された国司と前に任命された国司がトラブルが起こったら? この交代がうまくいかないんですね。

他にも、当時の国司は不正をかなり行っていたので、この不正が原因となって交代がうまくいかないこともあったそうです。

 

そこで桓武天皇かんむてんのうは、国司交代のときに不正やトラブルを防ぐために、解由状げゆじょうをチェックする役職を作ります。

それが勘解由使かげゆしです。

 

他にも、桓武天皇かんむてんのうは、班田についても見直ししました。

律令りつりょう制では、人々に耕させる農地・口分田くぶんでんを政府が与えていましたね。

この口分田くぶんでんは,6年ごとに分け与えていたのですが,桓武天皇かんむてんのうはこれを12年ごとに変えています。

 

 蝦夷討伐と徳政論争

f:id:nihonshi0:20201025180751j:plain

胆沢城跡(出典:Wikipedia

 少しさかのぼって、桓武天皇かんむてんのうの父・光仁天皇こうにんてんのうの時代。

東北地方にいた蝦夷えみしに、朝廷が東北地方で拠点としていた多賀城たがじょうを焼かれてしますんですね。

そこで桓武天皇かんむてんのうは、蝦夷えみしを討伐することに力を入れます。

3回にわたって東北へ兵を出すのですが、最初の2回は失敗してしまいました。

そこで軍の総大将である征夷大将軍せいいたいしょうぐんに任命されたのが坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろです。(797年)

田村麻呂たむらまろが3回目の出兵を行い、801年、ついに蝦夷えみしの族長である阿弖流為あてるいが降伏します。

 

そののち、胆沢城いさわじょうを作り、鎮守府ちんじゅふ多賀城から胆沢城へ移しました。

 

 

このように、桓武天皇かんむてんのうはさまざまな政策を行なってきたわけですが、実際に都づくりや戦争を行うのは民ですね。

長い間行っていたら当然民は疲弊してしまいます。

 

そこで804年、桓武天皇かんむてんのうは、民にとって良いのはどういう政治か?について,藤原緒嗣ふじわらのおつぐ菅野真道すがののまみちに議論させるんですね。

これを徳政論争とくせいろんそうと言います。

この話し合いで藤原緒嗣ふじわらのおつぐの言った、「方今いま天下苦し むところは軍事と造作ぞうさくなり」というセリフは有名です。

「今、民が苦しんでいるのは軍事と造作、つまり蝦夷討伐と平安京の造営だ!」ってことです。

この話し合いを受けて、桓武天皇かんむてんのうはこの2つの事業を中止することにします。

そしてこの2年後、桓武天皇かんむてんのうは亡くなりました。

 

 桓武天皇はどんな政治改革をしたの?桓武天皇の政治をわかりやすく解説 まとめ

f:id:nihonshi0:20201025181149j:plain

桓武天皇の時代

2度の遷都

 平城→長岡→平安

律令制の見直し

 税制と班田の見直し,勘解由使の設置

蝦夷討伐

 

いかがでしたか?

 

桓武天皇はさまざまな政策を行ってきましたが、大きく分けると上の3つです。

 

その中で、律令制の見直しと蝦夷討伐については、試験で重要な範囲になっています。

何を行なったのかを自分で説明できるようにしてみてくださいね。