藤原京 朝堂院南門(出典:Wikipedia)
壬申の乱で勝利し、天皇の位についた天武天皇ですが、志半ばでなくなってしまいます。
その意思を引き継いだのが、天武天皇の皇后であった持統天皇です。
彼女は日本で3人目の女帝です。
天武天皇には多くの子供がいましたが、どうして皇后であった持統天皇が天皇として即位したのでしょうか?
今回は「天武天皇の死後、どうして持統天皇が天皇の位についたの?」「持統天皇はどんな政策を行ったの?」という疑問にお答えします。
さっそく見ていきましょう!
年表で確認!文武朝までの流れ
文武天皇までの時代を年表にまとめてみました。
いま一度確認してみましょう。
天武天皇の死後
天武天皇には子供がたくさんいましたが、次の天皇として候補に挙がっていたのは2人でした。
1人は草壁皇子で、皇后(のちの持統天皇)との間にできた子どもでした。
もう1人は大津皇子で、すでになくなっていた、皇后の姉との間にできた子どもでした。
大津皇子より1つ年上であり、皇后が母親、加えて大津皇子の母はなくなっていることから、草壁皇子のほうが有力でした。
しかし大津皇子は文武ともに優れ、人望もあり、次の天皇にと望む人も少なくありませんでした。
そのためどちらの皇子を後継とするか、天武天皇は悩みます。
皇后の存在もあって、最終的に
草壁皇子を皇太子にたてることに決めました。
そして686年、天武天皇はなくなります。
草壁皇子を次の天皇候補をするという皇太后(先代の天皇の皇后、つまりのちの持統天皇)の願いは叶いました。
しかし優秀な大津皇子の存在は皇太后にとって邪魔でしかありません。
天武天皇の死後1ヶ月も経たたないうちに、皇太后は大津皇子を謀反の罪で捕らえ、翌日に死刑にしてしまいました。
こうして自身の不安要素をなくした皇太后ですが、天皇に即位する前に草壁皇子がなくなってしまいます。
皇太后としては自分の孫を天皇に即位させたいと思いますが、草壁皇子の息子である軽皇子は当時まだ7歳になったばかり。
天皇として即位させることはまだできません。
そこで軽皇子が成長するまで、皇太后自身が天皇として即位することを決意します。
これが持統天皇です。
持統天皇の政治
持統天皇は天武天皇の意思を引き継いだ政治を行いました。
即位の前年である689年、天武天皇の時代に編纂を始めた飛鳥浄御原令が施行されます。
そして即位した690年に、20年ぶりに戸籍を作ります。
これが庚寅年籍です。
これ以後、戸籍は6年ごとに作られるようになりました。
また694年、現在の奈良県に藤原京が完成し、飛鳥浄御原宮から遷都します。
藤原京は中国の都にならって、条坊制を持っていました。
条坊制とは、南北と東西の路によって、碁盤の目のように四角く区分けしたことです。
上の図に藤原京の条坊の様子が描かれているので、チェックして頭にイメージを焼き付けましょう!
697年、持統天皇はついに軽皇子に天皇の位を譲ります。
軽皇子は文武天皇として即位しました。
持統天皇は持統上皇となり、まだ若い天皇の後見役となります。
そして701年、日本で初めて律と令のそろった大宝律令が完成します。
律は刑法、令は行政法のことです。
今まで令だけのものが出されていましたが、律もそろって出されたのは大宝律令が初めてでした。
大宝律令を中心となって編纂したのは刑部親王と藤原不比等です。
刑部親王は天武天皇の子どもの一人ですが、持統上皇の子どもではありません。
文武天皇にとっておじの立場になります。
藤原不比等は中臣鎌足の息子です。
中臣鎌足は死後に天智天皇から藤原の姓をもらっているため、中臣ではなく藤原氏となっています。
持統天皇ってどんな人?文武天皇までの時代をわかりやすく解説!まとめ
持統天皇 - 重要な政策3つ-
・飛鳥浄御原令を施行
・庚寅年籍を作成
・藤原京に遷都
文武天皇 - 重要な政策 1つ -
・大宝律令の完成
いかがでしたか?
この時代は国家の基礎となる重要な政策がなされています。
どの天皇のときに何がなされたのか、しっかり押さえましょう。