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持統天皇ってどんな人?文武天皇までの時代をわかりやすく解説!

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藤原京 朝堂院南門(出典:Wikipedia)

 

壬申じんしんの乱で勝利し、天皇の位についた天武天皇てんむてんのうですが、志半ばでなくなってしまいます。

 

その意思を引き継いだのが、天武天皇てんむてんのうの皇后であった持統天皇じとうてんのうです。 

 

彼女は日本で3人目の女帝です。

 

天武天皇てんむてんのうには多くの子供がいましたが、どうして皇后であった持統天皇じとうてんのう天皇として即位したのでしょうか?

 

今回は「天武天皇てんむてんのうの死後、どうして持統天皇じとうてんのう天皇の位についたの?」「持統天皇じとうてんのうはどんな政策を行ったの?」という疑問にお答えします。

 

さっそく見ていきましょう! 

 

   もくじ   
  1. 年表で確認!文武朝までの流れ
  2. 天武天皇の死後
  3. 持統天皇の政治
  4. 文武天皇の即位
  5. 持統天皇ってどんな人?文武天皇までの時代をわかりやすく解説!まとめ

 

 

年表で確認!文武朝までの流れ
 

f:id:nihonshi0:20200624232447j:plain持統天皇(出典:Wikipedia

 

文武天皇もんむてんのうまでの時代を年表にまとめてみました。 

 

いま一度確認してみましょう。 

 

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天武天皇の死後

 

天武天皇てんむてんのうには子供がたくさんいましたが、次の天皇として候補に挙がっていたのは2人でした。

 

1人は草壁皇子くさかべのおうじで、皇后(のちの持統天皇じとうてんのう)との間にできた子どもでした。

 

もう1人は大津皇子おおつのおうじで、すでになくなっていた、皇后の姉との間にできた子どもでした。

 

大津皇子おおつのおうじより1つ年上であり、皇后が母親、加えて大津皇子おおつのおうじの母はなくなっていることから、草壁皇子くさかべのおうじのほうが有力でした。

 

しかし大津皇子おおつのおうじは文武ともに優れ、人望もあり、次の天皇にと望む人も少なくありませんでした。

 

そのためどちらの皇子を後継とするか、天武天皇てんむてんのうは悩みます。

 

皇后の存在もあって、最終的に草壁皇子くさかべのおうじを皇太子にたてることに決めました。

 

そして686年、天武天皇てんむてんのうはなくなります。

 

 

草壁皇子くさかべのおうじを次の天皇候補をするという皇太后(先代の天皇の皇后、つまりのちの持統天皇)の願いは叶いました。

 

しかし優秀な大津皇子おおつのおうじの存在は皇太后にとって邪魔でしかありません。

 

天武天皇てんむてんのうの死後1ヶ月も経たたないうちに、皇太后大津皇子おおつのおうじを謀反の罪で捕らえ、翌日に死刑にしてしまいました。

 

 

こうして自身の不安要素をなくした皇太后ですが、天皇に即位する前に草壁皇子くさかべのおうじがなくなってしまいます。

 

太后としては自分の孫を天皇に即位させたいと思いますが、草壁皇子くさかべのおうじの息子である軽皇子かるのみこは当時まだ7歳になったばかり。

 

天皇として即位させることはまだできません。

 

そこで軽皇子かるのみこが成長するまで、皇太后自身が天皇として即位することを決意します。

 

これが持統天皇じとうてんのうです。

 

 

持統天皇の政治

 

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藤原京条坊(出典:Wikipedia

 

持統天皇じとうてんのう天武天皇てんむてんのうの意思を引き継いだ政治を行いました。 

 

即位の前年である689年、天武天皇てんむてんのうの時代に編纂を始めた飛鳥浄御原令あすかきよみはらのれいが施行されます。 

 

 

そして即位した690年に、20年ぶりに戸籍を作ります。 

 

これが庚寅年籍こういんねんじゃくです。  

 

これ以後、戸籍は6年ごとに作られるようになりました。 

 

 

また694年、現在の奈良県藤原京ふじわらきょうが完成し、飛鳥浄御原宮あすかきよみはらのみやから遷都します。

 

藤原京ふじわらきょうは中国の都にならって、条坊制じょうぼうせいを持っていました。 

 

条坊制じょうぼうせいとは、南北と東西の路によって、碁盤の目のように四角く区分けしたことです。

 

上の図に藤原京ふじわらきょう条坊じょうぼうの様子が描かれているので、チェックして頭にイメージを焼き付けましょう!

 
 
文武天皇の即位
 
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697年、持統天皇じとうてんのうはついに軽皇子かるのみこ天皇の位を譲ります。

 

軽皇子かるのみこ文武天皇もんむてんのうとして即位しました。

 

持統天皇じとうてんのう持統上皇じとうじょうこうとなり、まだ若い天皇の後見役となります。 

 

 

そして701年、日本で初めてりつりょうのそろった大宝律令たいほうりつりょうが完成します。

 

りつは刑法、りょう行政法のことです。

 

今までりょうだけのものが出されていましたが、りつもそろって出されたのは大宝律令たいほうりつりょうが初めてでした。

 

大宝律令たいほうりつりょうを中心となって編纂したのは刑部親王おさかべしんのう藤原不比等ふじわらのふひとです。

 

刑部親王おさかべしんのう天武天皇てんむてんのうの子どもの一人ですが、持統上皇じとうじょうこうの子どもではありません。

 

文武天皇もんむてんのうにとっておじの立場になります。 

 

藤原不比等ふじわらのふひと中臣鎌足なかとみのかまたりの息子です。

 

中臣鎌足なかとみのかまたりは死後に天智天皇てんじてんのうから藤原ふじわらの姓をもらっているため、中臣なかとみではなく藤原ふじわら氏となっています。

 

 

持統天皇ってどんな人?文武天皇までの時代をわかりやすく解説!まとめ

 

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持統天皇じとうてんのう - 重要な政策3つ-

 ・飛鳥浄御原令あすかきよみはらのれいを施行

 ・庚寅年籍こういんねんじゃくを作成

 ・藤原京ふじわらきょうに遷都

文武天皇もんむてんのう - 重要な政策 1つ -

 ・大宝律令たいほうりつりょうの完成

 

 いかがでしたか?

 

この時代は国家の基礎となる重要な政策がなされています。

 

どの天皇のときに何がなされたのか、しっかり押さえましょう。