平城宮主要部の模型(出典:Wikipedia)
701年、日本で初めて律と令のそろった
大宝律令が完成します。
大宝律令が完成してから6年後の707年、
文武天皇は病死してしまいます。
文武天皇には息子がいました。
のちの聖武天皇である首皇子です。
次の天皇として首皇子を即位させたいですが、首皇子は当時まだ7歳。
天皇として即位するには幼すぎました。
首皇子はのちに聖武天皇として即位しますが、文武天皇が亡くなってから彼が即位するまで17年もあります。
では、首皇子が成長するまでの間、誰が天皇として即位していたのでしょうか?
今回は「文武天皇の死後から聖武天皇が即位するまで、誰が天皇に即位したの?」「その間にどのような政策が行われたの?」という疑問にお答えします。
それではさっそくみていきましょう!
元正天皇までの時代を年表にまとめてみました。
いま一度確認してみましょう。
元明天皇の政治
701年に
大宝律令が完成したあと、
文武天皇は707年になくなってしまいます。
文武天皇の息子である首皇子は当時まだ7歳。
天皇として即位するには幼すぎました。
そのため首皇子が成長するまでのつなぎとして、2人の女帝がその任を務めます。
まず天皇として即位したのは、首皇子の祖母であり、草壁皇子の妻であった元明天皇でした。
ちなみにこのとき政権を握っているのは藤原不比等です。
元明天皇が即位した翌年である708年、日本で銅がとれるようになります。
そこで元号を和銅と変えました。
これをきっかけに、元明天皇は和同開珎という銅銭を鋳造します。
和同開珎は本朝十二銭の一番最初の銅銭です。
本朝十二銭とは、708年からの250年間で朝廷によって作られた12種類の銅銭のことです。
富本銭を含めると、古代には13種類の貨幣があったことになりますね。
ちなみに同じ年に平城京を造営するように命じたため、お金が必要だったから和同開珎を鋳造したという説があるようです。
そして和同開珎が鋳造された2年後の710年、持統・文武・元明天皇の三代の間に宮都とされていた藤原京から、平城京へ遷都を行います。
さて、和同開珎が鋳造されましたが、当時行われていたのは物々交換です。
銭を与えられても、どうやって使えばいいのかよくわかりません。
なんとか貨幣を流通させたい…!という思いから制定されたのが、711年の蓄銭叙位令です。
蓄銭叙位令とは、銭をたくさん蓄えれば蓄えるほど高い位階をあげるという法律です。
元明天皇の時代において、文化史で覚えておきたいものが2つあります。
1つ目は712年の『古事記』の成立です。
古事記は、稗田阿礼が暗唱したものを太安万侶が文字に書き記した歴史書です。
現存する中では日本最古の歴史書になります。
2つ目は713年に『風土記』を編集するように命じたことです。
天正天皇の政治
715年、
元明天皇は老いを理由に退位します。
このときまだ首皇子を天皇に即位させることができなかったため、元正天皇が即位します。
元正天皇は草壁皇子と元明天皇の娘です。
つまり首皇子のおばになりますね。
即位してから2年後の717年、第9回の遣唐使が派遣されます。
このとき派遣されたのは、玄昉、吉備真備、阿倍仲麻呂たちです。
3人ともとても重要な人物ですのでチェックしておきましょう。
そして718年、養老律令ができます。
このとき中心となって編纂を行った人物は藤原不比等です。
藤原不比等といえば、文武天皇のときに完成した大宝律令の編纂にも関わっていましたね。
養老律令は大宝律令と内容にあまり差がないと言われています。
ここで注意したいのは、この養老律令が施行されたのは、完成してから約40年後であるということです!
では誰のときに施行されたのかといいますと、孝謙天皇の治世、藤原不比等の孫である藤原仲麻呂政権のときに施行されています。
間違えないように気を付けましょう!
養老律令が完成した2年後、
藤原不比等は亡くなります。
このあとに政権を握ったのが長屋王でした。
長屋王は、天武天皇の子・高市皇子の息子です。
さて、長屋王政権は722年、百万町歩開墾計画を打ち出します。
百万町歩開墾計画とは、農民に食料や道具を貸すかわりに10日間開墾させて良田を増やそうという計画です。
どうしてこんな計画を出そうと思ったのか?といいますと、浮浪・逃亡が続出したり、口分田が不足したりしてしまったからです。
つまり税が重くて土地から農民が逃げだしてしまったり、人口の増加で与える土地が減ってしまったりしたんですね。
そこで開墾して口分田をちゃんと与えようと、百万町歩開墾計画を打ち出します。
さらに開墾をすすめるために出した法令が、723年の三世一身法です。
三世一身法とは、条件・期限付きで水田を自分のものにしていいことを認めた法律です。
ここでいう条件・期限というのは次のようなものです。
・新しく灌漑施設を作って田んぼを作った
→自分・子供・孫の三世代が私有できる
・荒廃していた田んぼを復活させた
→自分だけ私有できる
つまり、自分や孫が死んだら国のものになっちゃうんですね。
(この政策はあまりうまくいきませんでした。
このことがのちの墾田永年私財法の制定につながります。)
このが出された翌年、元正天皇はついに、文武天皇の息子である首皇子へ位を譲ります。
これが聖武天皇です。
聖武天皇までの政治はどういう流れ?天明・天正天皇の時代をわかりやすく解説!まとめ
元明天皇 - 重要な出来事 5つ -
〈藤原不比等〉
・和同開珎の鋳造
・平城京への遷都
・蓄銭叙位令の制定
・『古事記』の完成
・『風土記』撰進の命
元正天皇 - 重要な出来事 4つ -
〈藤原不比等〉
・遣唐使の派遣
(玄昉、吉備真備、阿倍仲麻呂)
・養老律令の完成
〈長屋王〉
・百万町歩開墾計画
・三世一身法の制定
いかがでしたか?
天皇と行われた政策に加え、当時誰が政権を握っていたかは非常に重要です。
「自分で説明するとしたらどういうふうに言うだろう?」と考えながら繰り返し読むと、頭の中が整理できていいですよ。