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桓武天皇はどんな政治改革をしたの?桓武天皇の政治をわかりやすく解説

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桓武天皇(出典:Wikipedia

 さて、今回は平安時代初期の話をしたいと思います。

 

約400年間という、時代の中で最も長い間続いた平安時代

この平安時代の最初の天皇桓武天皇でした。

桓武天皇は政治改革を多く行なった天皇の1人、つまり覚えることがたくさんあることを行なった天皇の1人ということですね。

とくに桓武天皇が行なった律令制の改革については、整理できていない人もいるのではないでしょうか?

 

そこで今回、「桓武天皇はどんな政治改革をしたのか?」について、解説していきたいと思います。

さっそくみていきましょう! 

 

   もくじ   
  1. 年表で確認!桓武天皇の時代の流れ
  2. 2度の遷都 平安京に遷都するまで
  3. 律令制の見直し
  4. 蝦夷討伐と徳政論争
  5. 桓武天皇はどんな政治改革をしたの?桓武天皇の政治をわかりやすく解説 まとめ

 

 年表で確認!桓武天皇の時代の流れ

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平安京の模型の一部(出典:Wikipedia

桓武天皇かんむてんのうの時代を年表にまとめました。

さーっと目を通してみてください。

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 2度の遷都 平安京に遷都するまで

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長岡京跡(出典:Wikipedia

 桓武天皇かんむてんのうの話に入る前に、桓武天皇かんむてんのうが即位する前の流れを少し。

 

奈良時代の最後、女帝・称徳天皇しょうとくてんのうとその寵愛を受けていた僧・道鏡どうきょうによって、政治は混乱していました。

称徳天皇しょうとくが亡くなって次に即位したのが光仁天皇こうにんてんのうです。(770年)

ここで重要なのが、光仁天皇こうにんてんのう天智天皇てんじてんのうの孫、というところです。

 

天智天皇てんじてんのう飛鳥時代蘇我氏を滅ぼし、大化改新を行った人でしたね〜。

天智天皇てんじてんのうが亡くなったあと、天皇の位の争奪戦である壬申じんしんの乱が起こり、勝って天皇になった人が、天智天皇てんじてんのうの弟である天武天皇てんむてんのう

こののち、奈良時代の男性の天皇は、天武天皇てんむてんのうの子孫である天武てんむ系の皇族でした。

光仁天皇こうにんてんのうが即位したことによって、天武てんむ系から天智てんじ系に変わったんですね。

 

さて、光仁天皇こうにんてんのうののちに息子の桓武天皇かんむてんのうが即位します。(781年)

この桓武天皇かんむてんのう、まず最初に行ったことは遷都です。

784年、平城京へいじょうきょうから長岡京ながおかきょうに遷都するんですね。

都を移して都づくりを着々と進めるのですが…当時都づくりを担当していた役人のトップだった藤原種継ふじわらのたねつぐという人が暗殺されてしまいます。

犯人は分かったんですが、この犯人が桓武天皇かんむてんのうの弟・早良親王さわらしんのうに仕えていたことから、早良親王さわらしんのうも事件に関わったとされて捕まってしまいます。

淡路に流されることが決まるのですが、早良親王さわらしんのうは納得いきません。

自分は無実なのですから。

それから早良親王さわらしんのうは何も食べず、10日後に死んでしまいます。

 

そして桓武天皇かんむてんのう早良親王さわらしんのうの怨霊に悩まされることになります。

自分の皇后が死に、息子が病に侵され…悩んだ桓武天皇かんむてんのうは怨霊から逃れるために、また遷都することにします。

長岡京ながおかきょうに遷都してから10年後のことでした。

遷都した先は京都。

平安京へいあんきょうです。

 

 律令制の見直し

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ここまで読んで、「桓武天皇かんむてんのう、遷都しかしてないじゃんか!」と思った方、ご安心ください、桓武天皇かんむてんのうは数々の政策を行なっています。

桓武天皇かんむてんのうが行った政策は大きく分けて2つ、律令りつりょう制の見直し蝦夷えみし討伐です。

では律令りつりょう制からみていきましょう。

 

奈良時代の最後、農民は重すぎる負担に苦しんでいました。

そのためその土地から逃げ出したり、男より負担の軽い女と性別を偽って戸籍に登録する人が増えていました。

この農民の負担を減らそうと、桓武天皇かんむてんのう律令りつりょう制を見直しています。

 

当時、律令りつりょう制の税の一つである兵役へいえきによって、国内にいる21〜60歳の男性の一部は、各国にある軍団ぐんだんに所属しなければならなかったんですね。

戦いに備えるためです。

しかし、国司はこの軍団ぐんだんを自分勝手な用でこき使っており、軍団ぐんだんに所属する兵士は疲弊していました。

 

そのため桓武天皇かんむてんのうは、特定の地域だけ残して、その他の国では軍団ぐんだんを廃止します。

代わりに作った制度が、健児こんでいの制です。

健児こんでいは各国に配置された兵士のことで、郡司や地方の有力者の子弟を採用しました。

 

また、桓武天皇かんむてんのうは他の税の負担も軽くしています。

年間で60日、国内で肉体労働を行う雑徭ぞうようという税がありましたが、その日数を半減して30日にしました。

 

さて、農民の負担を減らすことには成功しましたが、他にも解決しなければならない問題がありました。

国司の交代がうまくいっていないという問題です。

律令りつりょう制で地方の国を収めている役人のトップが国司でしたね。

国司は中央で任命されて各国に派遣されるのですが、この当時、国司の交代がうまくいっていませんでした。

なんで国司が交代するだけなのにうまくいかなくなるの?って思ったそこのあなたのために、どうやって国司の交代が行われるか説明しますね。

そんなの完璧だぜ!って方は1段落分、飛ばしてください。

 

国司が交代するときは、新しく国司になる人が前の国司解由状げゆじょうという書類を渡すんですね。

この解由状げゆじょうというのは、前の国司はちゃんと仕事をしてましたよ、ちゃんと引き継ぎしましたよ、ってこと証明する書類です。

この解由状げゆじょうを前の国司中央政府にいる上司に渡すことで、前国司だった人は次の役職が与えられる…というシステムだったわけです。

しかし、もし新しく任命された国司と前に任命された国司がトラブルが起こったら? この交代がうまくいかないんですね。

他にも、当時の国司は不正をかなり行っていたので、この不正が原因となって交代がうまくいかないこともあったそうです。

 

そこで桓武天皇かんむてんのうは、国司交代のときに不正やトラブルを防ぐために、解由状げゆじょうをチェックする役職を作ります。

それが勘解由使かげゆしです。

 

他にも、桓武天皇かんむてんのうは、班田についても見直ししました。

律令りつりょう制では、人々に耕させる農地・口分田くぶんでんを政府が与えていましたね。

この口分田くぶんでんは,6年ごとに分け与えていたのですが,桓武天皇かんむてんのうはこれを12年ごとに変えています。

 

 蝦夷討伐と徳政論争

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胆沢城跡(出典:Wikipedia

 少しさかのぼって、桓武天皇かんむてんのうの父・光仁天皇こうにんてんのうの時代。

東北地方にいた蝦夷えみしに、朝廷が東北地方で拠点としていた多賀城たがじょうを焼かれてしますんですね。

そこで桓武天皇かんむてんのうは、蝦夷えみしを討伐することに力を入れます。

3回にわたって東北へ兵を出すのですが、最初の2回は失敗してしまいました。

そこで軍の総大将である征夷大将軍せいいたいしょうぐんに任命されたのが坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろです。(797年)

田村麻呂たむらまろが3回目の出兵を行い、801年、ついに蝦夷えみしの族長である阿弖流為あてるいが降伏します。

 

そののち、胆沢城いさわじょうを作り、鎮守府ちんじゅふ多賀城から胆沢城へ移しました。

 

 

このように、桓武天皇かんむてんのうはさまざまな政策を行なってきたわけですが、実際に都づくりや戦争を行うのは民ですね。

長い間行っていたら当然民は疲弊してしまいます。

 

そこで804年、桓武天皇かんむてんのうは、民にとって良いのはどういう政治か?について,藤原緒嗣ふじわらのおつぐ菅野真道すがののまみちに議論させるんですね。

これを徳政論争とくせいろんそうと言います。

この話し合いで藤原緒嗣ふじわらのおつぐの言った、「方今いま天下苦し むところは軍事と造作ぞうさくなり」というセリフは有名です。

「今、民が苦しんでいるのは軍事と造作、つまり蝦夷討伐と平安京の造営だ!」ってことです。

この話し合いを受けて、桓武天皇かんむてんのうはこの2つの事業を中止することにします。

そしてこの2年後、桓武天皇かんむてんのうは亡くなりました。

 

 桓武天皇はどんな政治改革をしたの?桓武天皇の政治をわかりやすく解説 まとめ

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桓武天皇の時代

2度の遷都

 平城→長岡→平安

律令制の見直し

 税制と班田の見直し,勘解由使の設置

蝦夷討伐

 

いかがでしたか?

 

桓武天皇はさまざまな政策を行ってきましたが、大きく分けると上の3つです。

 

その中で、律令制の見直しと蝦夷討伐については、試験で重要な範囲になっています。

何を行なったのかを自分で説明できるようにしてみてくださいね。 

孝謙天皇はどうして重祚したの?孝謙・淳仁・称徳天皇の時代をわかりやすく解説

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孝謙天皇(出典:Wikipedia)  

 

さて、重祚という言葉を覚えていますか?

 

重祚とは、一度退位した天皇が再び天皇の位に着くことでしたね。

 

そしてもう一つ質問。

 

日本の歴史において、重祚した天皇は何人でしょう?

 

なんとたったの2人しかいないんです。

 

ともに女帝で、1人は皇極天皇、もう1人は今回の記事に出てくる重要人物・孝謙天皇です。

 

孝謙天皇はなぜ重祚したのでしょうか?

 

今回の記事では、「なぜ孝謙天皇重祚したの?」「孝謙天皇の時代に実権はどのように移っていった?」について解説します。

 

それでは早速みていきましょう!

 

   もくじ   
  1. 年表で確認!孝謙・淳仁・称徳天皇の時代の流れ
  2. 藤原仲麻呂の繁栄【後ろ盾となった光明皇太后】
  3. 道鏡と称徳天皇の共同政治
  4. 孝謙天皇はどうして重祚したの?孝謙・淳仁・称徳天皇の時代をわかりやすく解説 まとめ

 

 

年表で確認!孝謙淳仁称徳天皇の時代の流れ
 

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淳仁天皇 淡路陵(出典:Wikipedia

 

孝謙天皇から光仁天皇が即位するまでのできごとを年表にまとめました。

 

今一度確認してみましょう。

 

 

※注意

年表で字の色が薄く、右に寄せて書かれているものは文化史の内容になります。

印象に残りやすいように入れてみました。

ただし、文化史の年号を覚える必要はありません!

文化史は、「どの事柄がどの時代に起こったのか?そのときの文化の特色は?」について抑えていればOKです。

「ふ〜ん、この作品はここらへんでできたんだな〜」くらいの感覚で、気楽に流してくださいね。

 

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 藤原仲麻呂の繁栄【後ろ盾となった光明皇太后

 

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藤原仲麻呂の屋敷・田村第跡 推定地(出典:Wikipedia 

さて、中臣鎌足なかとみのかまたりから始まった藤原氏についてみていきましょう。

 

聖武天皇しょうむてんのうの時代、藤原四子(武智麻呂むちまろ房前ふささき宇合うまかい麻呂)が天然痘で相次いで亡くなり、橘諸兄たちばなのもろえが政治の実権を握りましたね。

 

それに焦った宇合うまかいの息子・藤原広嗣ふじわらのひろつぐが反乱を起こすも失敗に終わります。

 

そんな中、着実に力をつけていた藤原氏がいます。

 

武智麻呂むちまろの息子・藤原仲麻呂ふじわらのなかまろです

 

 

749年、聖武天皇しょうむてんのうが娘へ位を譲り、孝謙天皇こうけんてんのうが即位しました。

 

そしてその母である光明皇后こうみょうこうごうは皇太后となります。

 

この孝謙天皇こうけんてんのうが即位した年、仲麻呂なかまろ紫微中台しびちゅうだいという光明皇太后こうみょうこうたいごうのための役所を設置しました。

 

仲麻呂なかまろはこの紫微中台の長官に就任し、自身の叔母である光明皇太后こうみょうこうたいごうとの結びつきを強めようとしたのです。

 

 

また757年、仲麻呂なかまろは、祖父の藤原不比等ふじわらのふひとが作った養老律令ようろうりつりょうを施行しています。

 

養老律令ようろうりつりょうは718年に不比等ふひとが完成させたものでしたね。

 

つまり、養老律令ようろうりつりょうは完成から約40年後に日の目を見たのです。

 

ではなぜ40年も前に作られた律令を引っ張り出してきたのでしょう?

 

これは不比等ふひとの功績を示し、藤原氏の名を高めるために行ったのではないかと言われています。

 

 

こうし徐々に力を強めていった仲麻呂なかまろですが、これを快く思わなかった者がいました。

 

橘諸兄たちばなのもろえの息子・橘奈良麻呂たちばなのならまろです。

 

実権が仲麻呂なかまろに集まる中、奈良麻呂仲麻呂なかまろを倒すために反仲麻呂なかまろ派を集めて反乱を企てました。

 

しかし、この計画は事前に密告されてしまい、橘奈良麻呂たちばなのならまろたちは捕らえられ、殺されてしまいます。

 

これを橘奈良麻呂たちばなのならまろの変と言います。

 

 

この翌年の758年、仲麻呂なかまろは新しい天皇を立てます。

 

淳仁天皇じゅんにんてんのうです。

 

淳仁天皇じゅんにんてんのうは、仲麻呂なかまろの息子の元妻を奥さんにしており、仲麻呂なかまろの私邸である田村第で暮らしていたことがあります。

 

つまり、仲麻呂なかまろの言いなりになる天皇だったんですね。

 

そして仲麻呂なかまろ恵美押勝えみのおしかつの名を賜り、太政大臣までのぼりつめました。

 

 

 

栄華の絶頂にいた仲麻呂なかまろですが、760年、彼の後ろ盾となっていた光明皇太后こうみょうこうたいごうが亡くなります

 

こうして後ろ盾を失った仲麻呂なかまろの政治生命に、衰退の影が射し始めたのです。

 

 道鏡称徳天皇の共同政治

 

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道鏡 自筆署名(出典:Wikipedia

光明皇太后こうみょうこうたいごうが亡くなった後、平城宮の改築をするために淳仁天皇じゅんにんてんのう孝謙上皇こうけんじょうこうは一時期違う宮で過ごします。
 
そんな折、孝謙上皇こうけんじょうこうは病気にかかるのですが、このときに治療を行なったのが道鏡どうきょうというお坊さんでした。
 
やがて孝謙上皇こうけんじょうこうはこの道鏡どうきょうを寵愛するようになります。
 
もちろん仲麻呂なかまろからしたらおもしろくありません。
 
そこで仲麻呂なかまろは、道鏡を寵愛するのをやめるよう淳仁天皇じゅんにんてんのうに言ってもらうのですが、これによって孝謙上皇こうけんじょうこうは怒ります。
 
そして淳仁天皇じゅんにんてんのうに仕事をさせないようにしていきました。
 
危機感を持った仲麻呂なかまろは反乱を企てます。
 
しかし孝謙上皇こうけんじょうこうに先手を打たれてしまい、都を逃れるも捕まって殺されました。
 
これを藤原仲麻呂ふじわらのなかまろの乱恵美押勝えみのおしかつの乱)と言います。

 

 

こののち、孝謙上皇こうけんじょうこう称徳天皇しょうとくてんのうとして即位し、道鏡どうきょう太政大臣禅師、さらに法王へと出世していきます。

 

その中で起こった事件が宇佐八幡宮神託事件うさはちまんぐうしんたくじけんです。

 

この事件の始まりは、宇佐八幡宮であったあるお告げが報告されたことにありました。

 

宇佐八幡宮は、次の天皇道鏡どうきょうがいいとのお告げがあったと報告したのです。

 

事の真偽を確かめるために、称徳天皇しょうとくてんのう和気清麻呂わけのきよまろを遣わして確認させに行かせました。

 

そして和気清麻呂わけのきよまろは、臣下が君主になったことは一度もないため、皇族を立てることが神のご意向だったと報告をします。

 

この報告を受け、称徳天皇しょうとくてんのう道鏡どうきょうは激しく怒ります。

 

怒りを買った和気清麻呂わけのきよまろは、別部穢麻呂わけべのきたなまろと改名され、流されてしまいます。

 

こうして道鏡どうきょう天皇となることを阻止した事件が、宇佐八幡宮神託事件うさはちまんぐうしんたくじけんなのです。

 

 

そして770年、称徳天皇しょうとくてんのうは病に倒れ、亡くなりました。

 

後ろ盾を失った道鏡どうきょうは、栃木県の下野薬師寺に左遷され、2年後に亡くなります。

 

 孝謙天皇はどうして重祚したの?孝謙淳仁称徳天皇の時代をわかりやすく解説 まとめ

 

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孝謙天皇こうけんてんのうの時代 重要なできごと2つ

養老律令ようろうりつりょうを施行

橘奈良麻呂たちばなのならまろの変

 

淳仁天皇じゅんにんてんのうの時代 重要なできごと1つ

藤原仲麻呂ふじわらのなかまろの乱

 

称徳天皇しょうとくてんのうの時代 重要なできごと1つ

宇佐八幡宮神託事件うさはちまんぐうしんたくじけん

 

いかがでしたか?

 

奈良時代は権力闘争の激しい時代でしたね。

 

そのためどの順番で誰が権力を握っていたか?に着目して流れをざっと掴むことが重要です。

 

今一度、確認してみてくださいね。 

聖武天皇は一代で何回遷都した?聖武天皇の政治をわかりやすく解説!

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聖武天皇(出典:Wikipedia

 

聖武天皇東大寺の大仏を建立した天皇として、馴染み深い天皇の一人ではないしょうか?

 

反面、一代で複数回遷都を行い、重要な出来事も多く起こった時代でもあり、受験生泣かせの天皇でもあるのではないでしょうか。

 

今回は、「聖武天皇はどれくらい遷都したの?」「聖武天皇の時代に実権を握っていたのは誰?」という疑問にお答えします。

 

それではさっそくみていきましょう。

 

   もくじ   
  1. 年表で確認!聖武天皇の時代の流れ
  2. 長屋王の変と光明子の立后
  3. 橘諸兄政権【藤原広嗣の乱と4度の遷都】
  4. 聖武天皇は一代で何回遷都した?聖武天皇の政治をわかりやすく解説!まとめ

 

 

 年表で確認!聖武天皇の時代の流れ

 

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東大寺大仏縁起起絵巻』中巻(出典:Wikipedia

 

聖武天皇しょうむてんのうの時代を年表にまとめました。

 

確認してみましょう!

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 長屋王の変光明子立后

 

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724年、聖武天皇しょうむてんのうが即位します。

 

このとき長屋王ながやおう左大臣に就任し、最高権力者となります。

 

 

さて、長屋王ながやおうの前に政権を握っていた藤原不比等ふじわらのふひとですが、聖武天皇しょうむてんのうの妃の一人に、不比等ふひとの娘・光明子こうみょうしがいました。

 

聖武天皇しょうむてんのう光明子こうみょうしの間には皇子が一人生まれましたが、1歳を前に亡くなってしまいます。

 

これを受けて、不比等ふひとの息子の武智麻呂むちまろ房前ふささき宇合うまかい麻呂まろの四兄弟は焦ります。

 

聖武天皇しょうむてんのうには他の妃との間に皇子が生まれており、その子供が天皇になる可能性が出てきたからです。

 

藤原氏との血縁関係のある天皇でないと、藤原氏の朝廷での力が弱くなってしまいます。

 

 

そこで、光明子こうみょうしを皇后にしようとする案を思いつきます。

 

皇后は天皇が亡くなったあと天皇として即位することができるため、聖武天皇しょうむてんのうが亡くなったあとに光明子こうみょうし天皇に即位できれば実権を握ることができます。

 

しかし、皇族以外が皇后になったことは今までありませんでした。

 

そのため長屋王ながやおう光明子こうみょうしの皇后即位に反対します。

 

 

そこで藤原四兄弟長屋王ながやおうの失脚を企て、長屋王ながやおうの呪いによって聖武天皇しょうむてんのう光明子こうみょうしとの皇子が亡くなったという報告が聖武天皇しょうむてんのうになされます。

 

こうして729年、長屋王ながやおうは謀反の疑いをかけられて自殺に追い込まれました。

 

これを長屋王ながやおうの変と言います。

 

そして同じ年の729年、光明子こうみょうしを皇后に即位させることに成功しました。

 

 

しかし737年に起こった天然痘の流行で、藤原四兄弟は全員亡くなってしまいました。

 

そこで政権を握ることになったのが橘諸兄たちばなのもろえです。

 

ちなみに橘諸兄たちばなのもろえ光明子こうみょうしにとって父の異なる兄です。

  

 橘諸兄政権【藤原広嗣の乱と4度の遷都】

 

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橘諸兄(出典:Wikipedia

 

橘諸兄たちばなのもろえ政権下では、遣唐使として唐に渡った経験のある玄昉げんぼう吉備真備きびのまきびが活躍します。

 

これに反感を持ったのが藤原広嗣ふじわらのひろつぐです。

 

広嗣ひろつぐ藤原四兄弟の一人・宇合うまかいの息子で、太宰府に左遷されていました。

 

 

 

政権内で藤原氏の力が弱い状態を変えようと、広嗣ひろつぐは九州で挙兵します。

 

この740年に起こった乱を藤原広嗣ふじわらのひろつぐの乱と言います。

 

広嗣ひろつぐは政府軍に敗れ、殺されてしまいます。

 

 

乱が起きて数年間、聖武天皇しょうむてんのう遷都を4回行います。

 

まず741年、平城京へいじょうきょうから恭仁京くにきょうに遷都を行います。

 

同じ年の741年に国分寺建立こくぶんじこんりゅうみことのりが、743年には墾田永年私財法こんでんえいねんしざいほう大仏建立だいぶつこんりゅうみことのりが出されます。

 

そして744年に難波宮なにわのみやへ、翌年の745年には紫香楽宮しがらきのみやへ遷都します。

 

しかし反対が多かったため、同じ年の745年、平城京へいじょうきょうに戻ることになりました。

 

そんなどの順番でどこに遷都したのか覚えられないよ…というあなた!

 

私が使ったゴロを紹介します!

 

「4回も国(恭仁)に何(難波)し(紫香楽)に?」です。

 

これなら覚えられそう!という方はぜひこれで覚えてみてください。

 

 

そして749年、聖武天皇しょうむてんのう天皇の位を光明子こうみょうしとの間に生まれた娘に譲ります。

 

それが孝謙天皇こうけんてんのうです。 

 

 聖武天皇は一代で何回遷都した?聖武天皇の政治をわかりやすく解説!まとめ

 

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聖武天皇しょうむてんのうの時代 重要なできごと7つ

長屋王ながやおうの変

光明子こうみょうし立后

藤原広嗣ふじわらのひろつぐの乱

・4度の遷都

 【平城京へいじょうきょう恭仁京くにきょう難波宮なにわのみや紫香楽宮しがらきのみや平城京へいじょうきょう

国分寺建立こくぶんじこんりゅうみことのり

墾田永年私財法こんでんえいねんしざいほう

大仏建立だいぶつこんりゅうみことのり

 

いかがでしたか?

 

 

権力者ごとに起こった重要な出来事の数を把握して、空で暗唱すると覚えやすいですよ。

 

ぜひ試してみてください。

聖武天皇までの政治はどういう流れ?元明・元正天皇の時代をわかりやすく解説!

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平城宮主要部の模型(出典:Wikipedia

701年、日本で初めて律と令のそろった大宝律令たいほうりつりょうが完成します。
 
このときの天皇文武天皇もんむてんのうでしたね。
 
大宝律令たいほうりつりょうが完成してから6年後の707年、文武天皇もんむてんのうは病死してしまいます。

 

文武天皇もんむてんのうには息子がいました。

 

のちの聖武天皇しょうむてんのうである首皇子わびとおうじです。

 

次の天皇として首皇子わびとおうじを即位させたいですが、首皇子わびとおうじは当時まだ7歳。

 

天皇として即位するには幼すぎました。

 

首皇子わびとおうじはのちに聖武天皇しょうむてんのうとして即位しますが、文武天皇もんむてんのうが亡くなってから彼が即位するまで17年もあります。

 

では、首皇子わびとおうじが成長するまでの間、誰が天皇として即位していたのでしょうか?

 

今回は「文武天皇もんむてんのうの死後から聖武天皇しょうむてんのうが即位するまで、誰が天皇に即位したの?」「その間にどのような政策が行われたの?」という疑問にお答えします。

  

それではさっそくみていきましょう! 

 

   もくじ   
  1. 年表で確認!天正朝までの流れ
  2. 天明天皇の政治
  3. 天正天皇の政治
  4. 長屋王の政策
  5. 聖武天皇までの政治はどういう流れ?天明・天正天皇の時代をわかりやすく解説!まとめ

 

 

年表で確認!天正朝までの流れ
 

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元正天皇てんしょうてんのうまでの時代を年表にまとめてみました。 

 

いま一度確認してみましょう。 

 

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元明天皇の政治

 

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701年に大宝律令たいほうりつりょうが完成したあと、文武天皇もんむてんのうは707年になくなってしまいます。

 

文武天皇もんむてんのうの息子である首皇子わびとおうじは当時まだ7歳。

 

天皇として即位するには幼すぎました。

 

そのため首皇子わびとおうじが成長するまでのつなぎとして、2人の女帝がその任を務めます。

 

まず天皇として即位したのは、首皇子わびとおうじの祖母であり、草壁皇子くさかべのおうじの妻であった元明天皇てんめいてんのうでした。

 

ちなみにこのとき政権を握っているのは藤原不比等ふじわらのふひとです。

 

 

元明天皇てんめいてんのうが即位した翌年である708年、日本で銅がとれるようになります。

 

そこで元号和銅と変えました。

 

これをきっかけに、元明天皇てんめいてんのう和同開珎わどうかいちんという銅銭を鋳造します。

 

和同開珎わどうかいちん本朝十二銭ほんちょうじゅうにせんの一番最初の銅銭です。

 

本朝十二銭ほんちょうじゅうにせんとは、708年からの250年間で朝廷によって作られた12種類の銅銭のことです。

 

富本銭ふほんせんを含めると、古代には13種類の貨幣があったことになりますね。

 

ちなみに同じ年に平城京へいじょうきょうを造営するように命じたため、お金が必要だったから和同開珎わどうかいちんを鋳造したという説があるようです。

 

そして和同開珎わどうかいちんが鋳造された2年後の710年、持統じとう文武もんむ元明天皇てんめいてんのうの三代の間に宮都とされていた藤原京ふじわらきょうから、平城京へいじょうきょうへ遷都を行います。

 

 

さて、和同開珎わどうかいちんが鋳造されましたが、当時行われていたのは物々交換です。

 

銭を与えられても、どうやって使えばいいのかよくわかりません。

 

なんとか貨幣を流通させたい…!という思いから制定されたのが、711年の蓄銭叙位令ちくせんじょいれいです。

 

蓄銭叙位令ちくせんじょいれいとは、銭をたくさん蓄えれば蓄えるほど高い位階をあげるという法律です。

 

 

元明天皇てんめいてんのうの時代において、文化史で覚えておきたいものが2つあります。

 

1つ目は712年の『古事記こじき』の成立です。

 

古事記こじきは、稗田阿礼ひえだのあれが暗唱したものを太安万侶おおのやすまろが文字に書き記した歴史書です。

 

現存する中では日本最古の歴史書になります。

 

2つ目は713年に『風土記ふどき』を編集するように命じたことです。

 

 

天正天皇の政治

 

 715年、元明天皇てんめいてんのうは老いを理由に退位します。

 

このときまだ首皇子わびとおうじ天皇に即位させることができなかったため、元正天皇てんしょうてんのうが即位します。

 

元正天皇げんしょうてんのう草壁皇子くさかべのおうじ元明天皇てんめいてんのうの娘です。

 

つまり首皇子わびとおうじのおばになりますね。

 

 

即位してから2年後の717年、第9回の遣唐使が派遣されます。

 

このとき派遣されたのは、玄昉げんぼう吉備真備きびのまきび阿倍仲麻呂あべのなかまろたちです。

 

3人ともとても重要な人物ですのでチェックしておきましょう。

 

 

 そして718年、養老律令ようろうりつりょうができます。

 

このとき中心となって編纂を行った人物は藤原不比等ふじわらのふひとです。

 

藤原不比等ふじわらのふひとといえば、文武天皇もんむてんのうのときに完成した大宝律令たいほうりつりょうの編纂にも関わっていましたね。

 

養老律令ようろうりつりょう大宝律令たいほうりつりょうと内容にあまり差がないと言われています。

 

ここで注意したいのは、この養老律令ようろうりつりょう施行されたのは、完成してから約40年後であるということです!

 

では誰のときに施行されたのかといいますと、孝謙天皇こうけんてんのうの治世、藤原不比等ふじわらのふひとの孫である藤原仲麻呂ふじわらのなかまろ政権のときに施行されています。

 

間違えないように気を付けましょう!

 

 

長屋王の政策
 

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養老律令ようろうりつりょうが完成した2年後、藤原不比等ふじわらのふひとは亡くなります。

 

このあとに政権を握ったのが長屋王ながやおうでした。

 

長屋王ながやおうは、天武天皇てんむてんのうの子・高市皇子たけちのおうじの息子です。

 

 

さて、長屋王ながやおう政権は722年、百万町歩開墾計画ひゃくまんちょうぶかいこんけいかくを打ち出します。

 

百万町歩開墾計画ひゃくまんちょうぶかいこんけいかくとは、農民に食料や道具を貸すかわりに10日間開墾させて良田を増やそうという計画です。

 

どうしてこんな計画を出そうと思ったのか?といいますと、浮浪・逃亡が続出したり、口分田が不足したりしてしまったからです。

 

つまり税が重くて土地から農民が逃げだしてしまったり、人口の増加で与える土地が減ってしまったりしたんですね。

 

そこで開墾して口分田をちゃんと与えようと、百万町歩開墾計画ひゃくまんちょうぶかいこんけいかくを打ち出します。

 

さらに開墾をすすめるために出した法令が、723年の三世一身法さんぜいっしんほうです。

 

三世一身法さんぜいっしんほうとは、条件・期限付きで水田を自分のものにしていいことを認めた法律です。

 

ここでいう条件・期限というのは次のようなものです。

 

 ・新しく灌漑施設を作って田んぼを作った

  →自分・子供・孫の三世代が私有できる

 

 ・荒廃していた田んぼを復活させた

  →自分だけ私有できる

 

つまり、自分や孫が死んだら国のものになっちゃうんですね。

 

(この政策はあまりうまくいきませんでした。

   このことがのちの墾田永年私財法こんでんえいねんしざいほうの制定につながります。)

 

このが出された翌年、元正天皇げんしょうてんのうはついに、文武天皇もんむてんのうの息子である首皇子わびとおうじへ位を譲ります。

 

これが聖武天皇しょうむてんのうです。

 

 

聖武天皇までの政治はどういう流れ?天明天正天皇の時代をわかりやすく解説!まとめ

 

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元明天皇てんめいてんのう - 重要な出来事 5つ -

藤原不比等ふじわらのふひと

 ・和同開珎わどうかいちんの鋳造

 ・平城京へいじょうきょうへの遷都

 ・蓄銭叙位令ちくせんじょいれいの制定

 ・『古事記こじき』の完成

 ・『風土記ふどき』撰進の命

元正天皇げんしょうてんのう - 重要な出来事 4つ -

藤原不比等ふじわらのふひと

 ・遣唐使の派遣

 (玄昉げんぼう吉備真備きびのまきび阿倍仲麻呂あべのなかまろ

 ・養老律令ようろうりつりょうの完成

長屋王ながやおう

 ・百万町歩開墾計画ひゃくまんちょうぶかいこんけいかく

 ・三世一身法さんぜいっしんほうの制定

 

 いかがでしたか?

 

天皇と行われた政策に加え、当時誰が政権を握っていたかは非常に重要です。

 

「自分で説明するとしたらどういうふうに言うだろう?」と考えながら繰り返し読むと、頭の中が整理できていいですよ。

持統天皇ってどんな人?文武天皇までの時代をわかりやすく解説!

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藤原京 朝堂院南門(出典:Wikipedia)

 

壬申じんしんの乱で勝利し、天皇の位についた天武天皇てんむてんのうですが、志半ばでなくなってしまいます。

 

その意思を引き継いだのが、天武天皇てんむてんのうの皇后であった持統天皇じとうてんのうです。 

 

彼女は日本で3人目の女帝です。

 

天武天皇てんむてんのうには多くの子供がいましたが、どうして皇后であった持統天皇じとうてんのう天皇として即位したのでしょうか?

 

今回は「天武天皇てんむてんのうの死後、どうして持統天皇じとうてんのう天皇の位についたの?」「持統天皇じとうてんのうはどんな政策を行ったの?」という疑問にお答えします。

 

さっそく見ていきましょう! 

 

   もくじ   
  1. 年表で確認!文武朝までの流れ
  2. 天武天皇の死後
  3. 持統天皇の政治
  4. 文武天皇の即位
  5. 持統天皇ってどんな人?文武天皇までの時代をわかりやすく解説!まとめ

 

 

年表で確認!文武朝までの流れ
 

f:id:nihonshi0:20200624232447j:plain持統天皇(出典:Wikipedia

 

文武天皇もんむてんのうまでの時代を年表にまとめてみました。 

 

いま一度確認してみましょう。 

 

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天武天皇の死後

 

天武天皇てんむてんのうには子供がたくさんいましたが、次の天皇として候補に挙がっていたのは2人でした。

 

1人は草壁皇子くさかべのおうじで、皇后(のちの持統天皇じとうてんのう)との間にできた子どもでした。

 

もう1人は大津皇子おおつのおうじで、すでになくなっていた、皇后の姉との間にできた子どもでした。

 

大津皇子おおつのおうじより1つ年上であり、皇后が母親、加えて大津皇子おおつのおうじの母はなくなっていることから、草壁皇子くさかべのおうじのほうが有力でした。

 

しかし大津皇子おおつのおうじは文武ともに優れ、人望もあり、次の天皇にと望む人も少なくありませんでした。

 

そのためどちらの皇子を後継とするか、天武天皇てんむてんのうは悩みます。

 

皇后の存在もあって、最終的に草壁皇子くさかべのおうじを皇太子にたてることに決めました。

 

そして686年、天武天皇てんむてんのうはなくなります。

 

 

草壁皇子くさかべのおうじを次の天皇候補をするという皇太后(先代の天皇の皇后、つまりのちの持統天皇)の願いは叶いました。

 

しかし優秀な大津皇子おおつのおうじの存在は皇太后にとって邪魔でしかありません。

 

天武天皇てんむてんのうの死後1ヶ月も経たたないうちに、皇太后大津皇子おおつのおうじを謀反の罪で捕らえ、翌日に死刑にしてしまいました。

 

 

こうして自身の不安要素をなくした皇太后ですが、天皇に即位する前に草壁皇子くさかべのおうじがなくなってしまいます。

 

太后としては自分の孫を天皇に即位させたいと思いますが、草壁皇子くさかべのおうじの息子である軽皇子かるのみこは当時まだ7歳になったばかり。

 

天皇として即位させることはまだできません。

 

そこで軽皇子かるのみこが成長するまで、皇太后自身が天皇として即位することを決意します。

 

これが持統天皇じとうてんのうです。

 

 

持統天皇の政治

 

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藤原京条坊(出典:Wikipedia

 

持統天皇じとうてんのう天武天皇てんむてんのうの意思を引き継いだ政治を行いました。 

 

即位の前年である689年、天武天皇てんむてんのうの時代に編纂を始めた飛鳥浄御原令あすかきよみはらのれいが施行されます。 

 

 

そして即位した690年に、20年ぶりに戸籍を作ります。 

 

これが庚寅年籍こういんねんじゃくです。  

 

これ以後、戸籍は6年ごとに作られるようになりました。 

 

 

また694年、現在の奈良県藤原京ふじわらきょうが完成し、飛鳥浄御原宮あすかきよみはらのみやから遷都します。

 

藤原京ふじわらきょうは中国の都にならって、条坊制じょうぼうせいを持っていました。 

 

条坊制じょうぼうせいとは、南北と東西の路によって、碁盤の目のように四角く区分けしたことです。

 

上の図に藤原京ふじわらきょう条坊じょうぼうの様子が描かれているので、チェックして頭にイメージを焼き付けましょう!

 
 
文武天皇の即位
 
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697年、持統天皇じとうてんのうはついに軽皇子かるのみこ天皇の位を譲ります。

 

軽皇子かるのみこ文武天皇もんむてんのうとして即位しました。

 

持統天皇じとうてんのう持統上皇じとうじょうこうとなり、まだ若い天皇の後見役となります。 

 

 

そして701年、日本で初めてりつりょうのそろった大宝律令たいほうりつりょうが完成します。

 

りつは刑法、りょう行政法のことです。

 

今までりょうだけのものが出されていましたが、りつもそろって出されたのは大宝律令たいほうりつりょうが初めてでした。

 

大宝律令たいほうりつりょうを中心となって編纂したのは刑部親王おさかべしんのう藤原不比等ふじわらのふひとです。

 

刑部親王おさかべしんのう天武天皇てんむてんのうの子どもの一人ですが、持統上皇じとうじょうこうの子どもではありません。

 

文武天皇もんむてんのうにとっておじの立場になります。 

 

藤原不比等ふじわらのふひと中臣鎌足なかとみのかまたりの息子です。

 

中臣鎌足なかとみのかまたりは死後に天智天皇てんじてんのうから藤原ふじわらの姓をもらっているため、中臣なかとみではなく藤原ふじわら氏となっています。

 

 

持統天皇ってどんな人?文武天皇までの時代をわかりやすく解説!まとめ

 

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持統天皇じとうてんのう - 重要な政策3つ-

 ・飛鳥浄御原令あすかきよみはらのれいを施行

 ・庚寅年籍こういんねんじゃくを作成

 ・藤原京ふじわらきょうに遷都

文武天皇もんむてんのう - 重要な政策 1つ -

 ・大宝律令たいほうりつりょうの完成

 

 いかがでしたか?

 

この時代は国家の基礎となる重要な政策がなされています。

 

どの天皇のときに何がなされたのか、しっかり押さえましょう。

壬申の乱ってどうして起こったの?天武天皇の時代をかんたん解説!

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壬申の乱時に大海人皇子が兜をかけたとされる兜掛石(出典:Wikipedia)

 

天皇の権力を高めた戦いに、壬申じんしんの乱があります。

 

壬申じんしんの乱はズバリ、おじ・おいの権力争奪戦です。

 

ではなぜ身内同士で争うことになってしまったのでしょう?

 

今回の記事では「壬申じんしんの乱はどういう流れで起こったの?」「そのあとどのように政治が行われたの?」という疑問にお答えします。

 

これを機に、天武天皇てんむてんのうの政治までマスターしちゃいましょう。

  

 

年表で確認!天武朝までの流れ

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富本銭(出典:Wikipedia)

  

まず天智天皇てんじてんのうがなくなってから天武天皇てんむてんのうがなくなるまでの大まかな流れを整理しました。

 

ざっと確認してみてください!

 

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大海人皇子天智天皇兄弟

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天智天皇(出典:Wikipedia)

 

天智天皇てんじてんのうはもともと弟である大海人皇子おおあまのおうじを次の天皇にしようと考えていました。

 

しかし息子の大友皇子おおとものおうじが成長するにつれ、大友皇子おおとものおうじ天皇にしたいと考えるようになります。

 

そして天智天皇てんじてんのう大友皇子を自身の後継者であることをだんだんと周りに示していきました。

 

こうして大海人皇子おおあまのおうじ天智天皇てんじてんのう大友皇子おおとものおうじ親子の対立はひどくなっていきます。

 

 

月日は流れ、天智天皇てんじてんのうは病に伏せる身となり、自分の死期が迫っていることに気づきました。

 

そして大海人皇子おおあまのおうじを枕もとに呼び、こんなことを言いました。

 

自分の病気は回復しそうにないから、あとのことを頼む、と。

 

ここでのあとを頼むとは、自分が死んだら天皇に即位してほしいということです。

 

もし大海人皇子おおあまのおうじがここで天皇として即位することを引き受けたら、天智天皇てんじてんのうは殺すつもりでいました。

 

中大兄皇子時代に邪魔者を徹底して排除してきた性格を考えると、納得がいきますね。

 

しかし大海人皇子おおあまのおうじは、事前に天智天皇てんじてんのうの言葉に気をつけるよう言われていたので引き受けませんでした。

 

自分は体が弱いから天皇に向かないこと、出家して吉野で過ごすことを天智天皇てんじてんのうに伝え、少ないお供を連れて吉野へ行きました。

 

しばらくして天智天皇てんじてんのうは亡くなります。

 

壬申の乱

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天智の息子・大友皇子(出典:Wikipedia)

 

大海人皇子おおあまのおうじが吉野に移ってから約半年後、大友皇子おおとものおうじが武器を集めていることを知ります。

 

それだけでなく、吉野に食料を運ぶための道もふさごうとしているという情報が入ります。

 

着々と戦争の準備がされていたのです。

 

それを聞いた大海人皇子おおあまのおうじはすぐに吉野から出発し、軍隊を東国から集めます。

 

有力な豪族たちは皆、大友皇子おおとものおうじ側につきました。

 

しかし地方豪族たちがついた大海人皇子おおあまのおうじ大友皇子おおとものおうじの率いる軍に勝ちました。

 

この乱のことを壬申じんしんの乱と言います。

 

その後、大海人皇子おおあまのおうじは飛鳥に戻り天武天皇てんむてんのうとして即位します。

 

朝廷で力を持っていた豪族たちは大友皇子おおとものおうじ側についたため没落しました。

 

そのためこの乱で天皇の権威が高まりました

 

天武天皇の政治

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天武天皇(出典:Wikipedia)

 

天武天皇てんむてんのうは様々な政策を成しました。

 

まず豪族の私有する部曲かきべをなくします。

 

ここで「あれ?部曲かきべってもうなくなってたんじゃなかったっけ?」と思ったそこのあなた!

 

鋭いですね!

 

以前の記事で解説したように、中大兄皇子が出した改新のみことのりで、豪族の私有していた部曲かきべはなくすことにしていましたよね。

 

しかしその後、白村江の戦いで負けたことで豪族の反感が爆発することを恐れた中大兄皇子は、私有民を一部復活させました。

 

天武天皇てんむてんのうはこれを完全になくしたのです。

 

天武天皇てんむてんのうの政治を語る上で欠かせないことは、八色やくさかばねを制定したことです。

 

八色やくさかばねとは、天皇と関係の深いものから順番に8つの階級に整理したものです。

 

他にも、天武天皇てんむてんのう律令制度や国史の編纂を行ったり、中国の都城制を見習って日本で初めての都城である藤原京の造営を始めたり、日本で一番古いお金とされる富本銭ふほんせんの鋳造などを行っています。

 

しかしもともと体が弱かったこともあって、即位から13年で天武天皇はなくなります。

 

壬申の乱ってどうして起こったの?天武天皇の時代をかんたん解説!まとめ

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天武天皇てんむてんのう - 重要な政策 3つ -

 ・部曲かきべの全廃

 ・富本銭ふほんせんの鋳造

 ・八色やくさかばねの制定

 

いかがでしたか?

 

多くのことに取り組んだ天武天皇てんむてんのうですが、特に覚えておきたい政策は3つです。

 

志半ばでなくなり、政策を施行する段階までいかなかったからです。

 

これらの政策は、天武天皇てんむてんのうの意思を引き継いだ皇后の持統天皇じとうてんのうやその孫の文武天皇もんむてんのうのところで出てきます。

 

取り組み始めた時期と、完成や施行の時期が異なるものは、注意して覚えましょう。

中大兄皇子はいざこざが多かった?天智天皇までの政治をかんたん解説!

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天智天皇 百人一首(出典:Wikipedia)

 

乙巳の変蘇我氏を滅ぼしたあと、中大兄皇子なかのおおえのおうじは皇太子として政治を動かしていきました。

 

改新のみことのりを出してから中大兄皇子なかのおおえのおうじ天智天皇てんじてんのうとして即位するまで、20年以上も期間があります。

 

とても長いですね!

 

しかし天皇として在位した期間は3年ととても短いです。

 

それぞれの期間にどのような政策を行なったのでしょうか?

 

また中大兄皇子なかのおおえのおうじは多くの政敵を死に追いやったことで有名な人物です。

 

今回は「中大兄皇子なかのおおえのおうじ大化改新のあとどんな政策をした?」「誰が殺されたの?」という疑問にお答えします。

 

中大兄皇子なかのおおえのおうじ天智天皇てんじてんのうとして政策を立てたときまでの流れを一緒に整理しましょう!

 

 

 

蘇我蔵山田石川麻呂の自殺

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興福寺仏頭(出典:Wikipedia)

 

新政府は東北地方に勢力を伸ばそうと考えました。

 

改新のみことのり646年に出した次の年、647年に渟足柵ぬたりのさく648年に磐舟柵いわふねのさくという城柵を作ります。

 

2つの城柵は現在の新潟県あたりに作られました。

 

このように中大兄皇子なかのおおえのおうじたちは改革を行なっていくのですが、そんななか、こんなつげぐちがありました。

 

右大臣・蘇我倉山田石川麻呂そがのくらやまだのいしかわまろ中大兄皇子なかのおおえのおうじ暗殺を計画していると。

 

それを信じこんだ中大兄皇子なかのおおえのおうじは、649年、蘇我倉山田石川麻呂そがのくらやまだのいしかわまろを攻めて自殺に追い込みました。

 

のちに蘇我倉山田石川麻呂そがのくらやまだのいしかわまろが潔白だったことがわかります。

 

この事件について中大兄皇子なかのおおえのおうじは、蘇我倉山田石川麻呂そがのくらやまだのいしかわまろが無実だったと知って後悔したとか、もともと邪魔だったから消そうとしていたとか、いろいろ言われています。

 

ちなみに、蘇我倉山田石川麻呂そがのくらやまだのいしかわまろが立てた寺・山田寺はとても重要です。

 

この山田寺の本尊は頭の部分だけ興福寺に残っています。

 

これを興福寺仏頭と言います。

  

孝徳天皇死去

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斉明天皇(出典:Wikipedia)

 

当時天皇孝徳天皇でしたが、政治は中大兄皇子なかのおおえのおうじが取り仕切っていたため、名ばかりの天皇でした。

 

そのため中大兄皇子なかのおおえのおうじ孝徳天皇の仲は悪くなっていきます。

 

そんななか、中大兄皇子なかのおおえのおうじは難波から飛鳥に都を再び戻すことを提案します。

 

孝徳天皇はこれに反対。

 

そこで中大兄皇子なかのおおえのおうじは、皇極天皇だった自分の母(孝徳天皇の姉)や、妹であり孝徳天皇の正妻でもある人皇はしひとこうごう、弟・大海人皇子おおあまのおうじ、加えて主な貴族たちと一緒に飛鳥に移ってしまいます。

 

これに孝徳天皇はとてもショックを受けました。

 

自分の家臣や姉だけでなく、奥さんまで行ってしまったらショックですよね…。

 

この出来事が原因で孝徳天皇は病にかかり、難波宮でさびしく亡くなります。

 

 

このあと孝徳天皇の前の天皇だった皇極天皇重祚ちょうそし、斉明天皇さいめいてんのうになりました。

 

重祚ちょうそとは一度退位した天皇が再び天皇になることです。

 

重祚ちょうそは今までで2回行われ、1つは皇極天皇斉明天皇さいめいてんのうになったことと、もう1つは奈良時代孝謙天皇称徳天皇になったことです。

 

有間王子の謀反計画 

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斉明天皇さいめいてんのうは土木工事を多くおこなった天皇でした。

 

そのため、かりだされた人民は苦しみました。

 

その状況を理由に、謀反をそそのかされた人物がいます。

 

孝徳天皇の息子・有間皇子ありまのみこです。

 

有間皇子ありまのおうじ蘇我赤兄そがのあかえに今の政治が間違っていることを話されました。

 

それに心動かされた有間皇子ありまのみこ赤兄あかえに謀反の相談をしますが、赤兄あかえ有間皇子ありまのみこを裏切り、天皇に報告しました。

 

そのため658年、有間皇子ありまのみこは謀反の罪で殺されてしまいます。

 

 

ちなみに同じ年、東北へ進出するための策の1つとして、阿倍比羅夫あべのひらふが東北に派遣されています。

 

チェックしときましょう。

 

白村江の戦い

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水城城跡 全景(出典:Wikipedia)

 

660年、百済くだらから使者が来ます。

 

当時、百済くだらは唐と新羅に攻められていたため、日本に助けを求めたのです。

 

百済くだらを助けるために援軍を出すことを決めた斉明天皇さいめいてんのうは、みずから援軍とともに九州に行きますが、そこで亡くなってしまいます。

 

斉明天皇さいめいてんのうの死後、中大兄皇子なかのおおえのおうじはしばらく天皇に即位せず、皇太子のまま政治を行いました。

 

この、天皇がなくなったあとに皇太子や皇后が皇位につかずに政治を行うことを称制と言います。

 

 

そして663年、白村江はくそんこうで唐・新羅しらぎの連合軍と戦い、大敗してしまいます。

 

この戦いを白村江はくそんこうの戦いといいます。

 

この戦いで負けたことにより百済滅亡が決定的になりました。

 

このとき中大兄皇子なかのおおえのおうじが何よりも恐れたことは、唐・新羅連合軍が日本に攻めてくることでした。

 

そこで国を守るために以下の重要な2つのことを行います。

 

大陸に近い場所に防人 さきもりという兵隊をおき、とぶひという伝達システムを作った。

水城みずきや、大野城などの朝鮮式山城をたてた。

 

水城みずきは土を積み上げてつくったとりでのことです。

 

朝鮮式山城は百済くだらから亡命してきた貴族が技術指導をしたお城のことです。

 

また667年、都を飛鳥から近江大津京に遷都します。

 

天智天皇即位

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天智天皇(出典:Wikipedia)

 

668年、中大兄皇子なかのおおえのおうじは正式に天皇になりました。

 

これが天智天皇てんじてんのうです。

 

天智天皇てんじてんのうとなってから行った政策で重要なものは2つあります。

 

668年に近江令を完成させる

670年に最初の全国規模の戸籍・庚午年籍こうごねんじゃくをつくる

 

近江令とは中臣鎌足らが編纂した令のことです。

 

令は現在でいう民法行政法のことです。

 

この近江令は残っている史料が少なく、詳しいことはよく分かっていません。

 

そのため完成や施行を否定する説もあります。

 

 

そして即位から3年後の671年、天智天皇は亡くなります。

 

年表で確認!天智朝までの流れ

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飛鳥全景 岡寺から(出典:Wikipedia)

 

改新の詔が出てから天智天皇てんじてんのうがなくなるまでをまとめてみました。

 

参考になると嬉しいです。

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中大兄皇子はいざこざが多かった?天智天皇までの政治をかんたん解説!まとめ

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皇太子時代 −重要な政策3つ−

1)東北経営  

渟足柵ぬたりのさく磐舟柵いわふねのさくの設置、阿倍比羅夫あべのひらふを東北に派遣 

2)外交         

白村江の戦いで大敗国防強化

3)遷都         

飛鳥から近江大津宮へ遷都

 

天皇即位後 −重要な政策2つ−

近江令

庚午年籍こうごねんじゃく

 

いかがでしたか?

 

中大兄皇子は多くの政敵を死に追いやっていますが、その合間合間に重要な出来事が起こっています。

 

いつ何が起きたのか、歴史の流れを抑えることが大切です。

 

皇太子時代と天皇即位後に行った政策を頭の中で整理しておきましょう!