聖武天皇(出典:Wikipedia)
聖武天皇は東大寺の大仏を建立した天皇として、馴染み深い天皇の一人ではないしょうか?
反面、一代で複数回遷都を行い、重要な出来事も多く起こった時代でもあり、受験生泣かせの天皇でもあるのではないでしょうか。
今回は、「聖武天皇はどれくらい遷都したの?」「聖武天皇の時代に実権を握っていたのは誰?」という疑問にお答えします。
それではさっそくみていきましょう。
聖武天皇の時代を年表にまとめました。
確認してみましょう!
長屋王の変と光明子の立后
724年、聖武天皇が即位します。
このとき長屋王は左大臣に就任し、最高権力者となります。
さて、長屋王の前に政権を握っていた藤原不比等ですが、聖武天皇の妃の一人に、不比等の娘・光明子がいました。
聖武天皇と光明子の間には皇子が一人生まれましたが、1歳を前に亡くなってしまいます。
これを受けて、不比等の息子の武智麻呂・房前・宇合・麻呂の四兄弟は焦ります。
聖武天皇には他の妃との間に皇子が生まれており、その子供が天皇になる可能性が出てきたからです。
藤原氏との血縁関係のある天皇でないと、藤原氏の朝廷での力が弱くなってしまいます。
そこで、光明子を皇后にしようとする案を思いつきます。
皇后は天皇が亡くなったあと天皇として即位することができるため、聖武天皇が亡くなったあとに光明子が天皇に即位できれば実権を握ることができます。
しかし、皇族以外が皇后になったことは今までありませんでした。
そのため長屋王が光明子の皇后即位に反対します。
そこで藤原四兄弟は長屋王の失脚を企て、長屋王の呪いによって聖武天皇と光明子との皇子が亡くなったという報告が聖武天皇になされます。
こうして729年、長屋王は謀反の疑いをかけられて自殺に追い込まれました。
これを長屋王の変と言います。
そして同じ年の729年、光明子を皇后に即位させることに成功しました。
しかし737年に起こった天然痘の流行で、藤原四兄弟は全員亡くなってしまいました。
そこで政権を握ることになったのが橘諸兄です。
ちなみに橘諸兄は光明子にとって父の異なる兄です。
橘諸兄政権【藤原広嗣の乱と4度の遷都】
橘諸兄政権下では、遣唐使として唐に渡った経験のある玄昉と吉備真備が活躍します。
これに反感を持ったのが藤原広嗣です。
広嗣は藤原四兄弟の一人・宇合の息子で、太宰府に左遷されていました。
政権内で藤原氏の力が弱い状態を変えようと、広嗣は九州で挙兵します。
この740年に起こった乱を藤原広嗣の乱と言います。
広嗣は政府軍に敗れ、殺されてしまいます。
乱が起きて数年間、聖武天皇は遷都を4回行います。
まず741年、平城京から恭仁京に遷都を行います。
同じ年の741年に国分寺建立の詔が、743年には墾田永年私財法と大仏建立の詔が出されます。
そして744年に難波宮へ、翌年の745年には紫香楽宮へ遷都します。
しかし反対が多かったため、同じ年の745年、平城京に戻ることになりました。
そんなどの順番でどこに遷都したのか覚えられないよ…というあなた!
私が使ったゴロを紹介します!
「4回も国(恭仁)に何(難波)し(紫香楽)に?」です。
これなら覚えられそう!という方はぜひこれで覚えてみてください。
そして749年、聖武天皇は天皇の位を光明子との間に生まれた娘に譲ります。
それが孝謙天皇です。
聖武天皇は一代で何回遷都した?聖武天皇の政治をわかりやすく解説!まとめ
聖武天皇の時代 重要なできごと7つ
・長屋王の変
・光明子の立后
・藤原広嗣の乱
・4度の遷都
【平城京→恭仁京→難波宮→紫香楽宮→平城京】
・国分寺建立の詔
・墾田永年私財法
・大仏建立の詔
いかがでしたか?
権力者ごとに起こった重要な出来事の数を把握して、空で暗唱すると覚えやすいですよ。
ぜひ試してみてください。