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孝謙天皇はどうして重祚したの?孝謙・淳仁・称徳天皇の時代をわかりやすく解説

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孝謙天皇(出典:Wikipedia)  

 

さて、重祚という言葉を覚えていますか?

 

重祚とは、一度退位した天皇が再び天皇の位に着くことでしたね。

 

そしてもう一つ質問。

 

日本の歴史において、重祚した天皇は何人でしょう?

 

なんとたったの2人しかいないんです。

 

ともに女帝で、1人は皇極天皇、もう1人は今回の記事に出てくる重要人物・孝謙天皇です。

 

孝謙天皇はなぜ重祚したのでしょうか?

 

今回の記事では、「なぜ孝謙天皇重祚したの?」「孝謙天皇の時代に実権はどのように移っていった?」について解説します。

 

それでは早速みていきましょう!

 

   もくじ   
  1. 年表で確認!孝謙・淳仁・称徳天皇の時代の流れ
  2. 藤原仲麻呂の繁栄【後ろ盾となった光明皇太后】
  3. 道鏡と称徳天皇の共同政治
  4. 孝謙天皇はどうして重祚したの?孝謙・淳仁・称徳天皇の時代をわかりやすく解説 まとめ

 

 

年表で確認!孝謙淳仁称徳天皇の時代の流れ
 

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淳仁天皇 淡路陵(出典:Wikipedia

 

孝謙天皇から光仁天皇が即位するまでのできごとを年表にまとめました。

 

今一度確認してみましょう。

 

 

※注意

年表で字の色が薄く、右に寄せて書かれているものは文化史の内容になります。

印象に残りやすいように入れてみました。

ただし、文化史の年号を覚える必要はありません!

文化史は、「どの事柄がどの時代に起こったのか?そのときの文化の特色は?」について抑えていればOKです。

「ふ〜ん、この作品はここらへんでできたんだな〜」くらいの感覚で、気楽に流してくださいね。

 

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 藤原仲麻呂の繁栄【後ろ盾となった光明皇太后

 

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藤原仲麻呂の屋敷・田村第跡 推定地(出典:Wikipedia 

さて、中臣鎌足なかとみのかまたりから始まった藤原氏についてみていきましょう。

 

聖武天皇しょうむてんのうの時代、藤原四子(武智麻呂むちまろ房前ふささき宇合うまかい麻呂)が天然痘で相次いで亡くなり、橘諸兄たちばなのもろえが政治の実権を握りましたね。

 

それに焦った宇合うまかいの息子・藤原広嗣ふじわらのひろつぐが反乱を起こすも失敗に終わります。

 

そんな中、着実に力をつけていた藤原氏がいます。

 

武智麻呂むちまろの息子・藤原仲麻呂ふじわらのなかまろです

 

 

749年、聖武天皇しょうむてんのうが娘へ位を譲り、孝謙天皇こうけんてんのうが即位しました。

 

そしてその母である光明皇后こうみょうこうごうは皇太后となります。

 

この孝謙天皇こうけんてんのうが即位した年、仲麻呂なかまろ紫微中台しびちゅうだいという光明皇太后こうみょうこうたいごうのための役所を設置しました。

 

仲麻呂なかまろはこの紫微中台の長官に就任し、自身の叔母である光明皇太后こうみょうこうたいごうとの結びつきを強めようとしたのです。

 

 

また757年、仲麻呂なかまろは、祖父の藤原不比等ふじわらのふひとが作った養老律令ようろうりつりょうを施行しています。

 

養老律令ようろうりつりょうは718年に不比等ふひとが完成させたものでしたね。

 

つまり、養老律令ようろうりつりょうは完成から約40年後に日の目を見たのです。

 

ではなぜ40年も前に作られた律令を引っ張り出してきたのでしょう?

 

これは不比等ふひとの功績を示し、藤原氏の名を高めるために行ったのではないかと言われています。

 

 

こうし徐々に力を強めていった仲麻呂なかまろですが、これを快く思わなかった者がいました。

 

橘諸兄たちばなのもろえの息子・橘奈良麻呂たちばなのならまろです。

 

実権が仲麻呂なかまろに集まる中、奈良麻呂仲麻呂なかまろを倒すために反仲麻呂なかまろ派を集めて反乱を企てました。

 

しかし、この計画は事前に密告されてしまい、橘奈良麻呂たちばなのならまろたちは捕らえられ、殺されてしまいます。

 

これを橘奈良麻呂たちばなのならまろの変と言います。

 

 

この翌年の758年、仲麻呂なかまろは新しい天皇を立てます。

 

淳仁天皇じゅんにんてんのうです。

 

淳仁天皇じゅんにんてんのうは、仲麻呂なかまろの息子の元妻を奥さんにしており、仲麻呂なかまろの私邸である田村第で暮らしていたことがあります。

 

つまり、仲麻呂なかまろの言いなりになる天皇だったんですね。

 

そして仲麻呂なかまろ恵美押勝えみのおしかつの名を賜り、太政大臣までのぼりつめました。

 

 

 

栄華の絶頂にいた仲麻呂なかまろですが、760年、彼の後ろ盾となっていた光明皇太后こうみょうこうたいごうが亡くなります

 

こうして後ろ盾を失った仲麻呂なかまろの政治生命に、衰退の影が射し始めたのです。

 

 道鏡称徳天皇の共同政治

 

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道鏡 自筆署名(出典:Wikipedia

光明皇太后こうみょうこうたいごうが亡くなった後、平城宮の改築をするために淳仁天皇じゅんにんてんのう孝謙上皇こうけんじょうこうは一時期違う宮で過ごします。
 
そんな折、孝謙上皇こうけんじょうこうは病気にかかるのですが、このときに治療を行なったのが道鏡どうきょうというお坊さんでした。
 
やがて孝謙上皇こうけんじょうこうはこの道鏡どうきょうを寵愛するようになります。
 
もちろん仲麻呂なかまろからしたらおもしろくありません。
 
そこで仲麻呂なかまろは、道鏡を寵愛するのをやめるよう淳仁天皇じゅんにんてんのうに言ってもらうのですが、これによって孝謙上皇こうけんじょうこうは怒ります。
 
そして淳仁天皇じゅんにんてんのうに仕事をさせないようにしていきました。
 
危機感を持った仲麻呂なかまろは反乱を企てます。
 
しかし孝謙上皇こうけんじょうこうに先手を打たれてしまい、都を逃れるも捕まって殺されました。
 
これを藤原仲麻呂ふじわらのなかまろの乱恵美押勝えみのおしかつの乱)と言います。

 

 

こののち、孝謙上皇こうけんじょうこう称徳天皇しょうとくてんのうとして即位し、道鏡どうきょう太政大臣禅師、さらに法王へと出世していきます。

 

その中で起こった事件が宇佐八幡宮神託事件うさはちまんぐうしんたくじけんです。

 

この事件の始まりは、宇佐八幡宮であったあるお告げが報告されたことにありました。

 

宇佐八幡宮は、次の天皇道鏡どうきょうがいいとのお告げがあったと報告したのです。

 

事の真偽を確かめるために、称徳天皇しょうとくてんのう和気清麻呂わけのきよまろを遣わして確認させに行かせました。

 

そして和気清麻呂わけのきよまろは、臣下が君主になったことは一度もないため、皇族を立てることが神のご意向だったと報告をします。

 

この報告を受け、称徳天皇しょうとくてんのう道鏡どうきょうは激しく怒ります。

 

怒りを買った和気清麻呂わけのきよまろは、別部穢麻呂わけべのきたなまろと改名され、流されてしまいます。

 

こうして道鏡どうきょう天皇となることを阻止した事件が、宇佐八幡宮神託事件うさはちまんぐうしんたくじけんなのです。

 

 

そして770年、称徳天皇しょうとくてんのうは病に倒れ、亡くなりました。

 

後ろ盾を失った道鏡どうきょうは、栃木県の下野薬師寺に左遷され、2年後に亡くなります。

 

 孝謙天皇はどうして重祚したの?孝謙淳仁称徳天皇の時代をわかりやすく解説 まとめ

 

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孝謙天皇こうけんてんのうの時代 重要なできごと2つ

養老律令ようろうりつりょうを施行

橘奈良麻呂たちばなのならまろの変

 

淳仁天皇じゅんにんてんのうの時代 重要なできごと1つ

藤原仲麻呂ふじわらのなかまろの乱

 

称徳天皇しょうとくてんのうの時代 重要なできごと1つ

宇佐八幡宮神託事件うさはちまんぐうしんたくじけん

 

いかがでしたか?

 

奈良時代は権力闘争の激しい時代でしたね。

 

そのためどの順番で誰が権力を握っていたか?に着目して流れをざっと掴むことが重要です。

 

今一度、確認してみてくださいね。