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中大兄皇子はいざこざが多かった?天智天皇までの政治をかんたん解説!

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天智天皇 百人一首(出典:Wikipedia)

 

乙巳の変蘇我氏を滅ぼしたあと、中大兄皇子なかのおおえのおうじは皇太子として政治を動かしていきました。

 

改新のみことのりを出してから中大兄皇子なかのおおえのおうじ天智天皇てんじてんのうとして即位するまで、20年以上も期間があります。

 

とても長いですね!

 

しかし天皇として在位した期間は3年ととても短いです。

 

それぞれの期間にどのような政策を行なったのでしょうか?

 

また中大兄皇子なかのおおえのおうじは多くの政敵を死に追いやったことで有名な人物です。

 

今回は「中大兄皇子なかのおおえのおうじ大化改新のあとどんな政策をした?」「誰が殺されたの?」という疑問にお答えします。

 

中大兄皇子なかのおおえのおうじ天智天皇てんじてんのうとして政策を立てたときまでの流れを一緒に整理しましょう!

 

 

 

蘇我蔵山田石川麻呂の自殺

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興福寺仏頭(出典:Wikipedia)

 

新政府は東北地方に勢力を伸ばそうと考えました。

 

改新のみことのり646年に出した次の年、647年に渟足柵ぬたりのさく648年に磐舟柵いわふねのさくという城柵を作ります。

 

2つの城柵は現在の新潟県あたりに作られました。

 

このように中大兄皇子なかのおおえのおうじたちは改革を行なっていくのですが、そんななか、こんなつげぐちがありました。

 

右大臣・蘇我倉山田石川麻呂そがのくらやまだのいしかわまろ中大兄皇子なかのおおえのおうじ暗殺を計画していると。

 

それを信じこんだ中大兄皇子なかのおおえのおうじは、649年、蘇我倉山田石川麻呂そがのくらやまだのいしかわまろを攻めて自殺に追い込みました。

 

のちに蘇我倉山田石川麻呂そがのくらやまだのいしかわまろが潔白だったことがわかります。

 

この事件について中大兄皇子なかのおおえのおうじは、蘇我倉山田石川麻呂そがのくらやまだのいしかわまろが無実だったと知って後悔したとか、もともと邪魔だったから消そうとしていたとか、いろいろ言われています。

 

ちなみに、蘇我倉山田石川麻呂そがのくらやまだのいしかわまろが立てた寺・山田寺はとても重要です。

 

この山田寺の本尊は頭の部分だけ興福寺に残っています。

 

これを興福寺仏頭と言います。

  

孝徳天皇死去

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斉明天皇(出典:Wikipedia)

 

当時天皇孝徳天皇でしたが、政治は中大兄皇子なかのおおえのおうじが取り仕切っていたため、名ばかりの天皇でした。

 

そのため中大兄皇子なかのおおえのおうじ孝徳天皇の仲は悪くなっていきます。

 

そんななか、中大兄皇子なかのおおえのおうじは難波から飛鳥に都を再び戻すことを提案します。

 

孝徳天皇はこれに反対。

 

そこで中大兄皇子なかのおおえのおうじは、皇極天皇だった自分の母(孝徳天皇の姉)や、妹であり孝徳天皇の正妻でもある人皇はしひとこうごう、弟・大海人皇子おおあまのおうじ、加えて主な貴族たちと一緒に飛鳥に移ってしまいます。

 

これに孝徳天皇はとてもショックを受けました。

 

自分の家臣や姉だけでなく、奥さんまで行ってしまったらショックですよね…。

 

この出来事が原因で孝徳天皇は病にかかり、難波宮でさびしく亡くなります。

 

 

このあと孝徳天皇の前の天皇だった皇極天皇重祚ちょうそし、斉明天皇さいめいてんのうになりました。

 

重祚ちょうそとは一度退位した天皇が再び天皇になることです。

 

重祚ちょうそは今までで2回行われ、1つは皇極天皇斉明天皇さいめいてんのうになったことと、もう1つは奈良時代孝謙天皇称徳天皇になったことです。

 

有間王子の謀反計画 

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斉明天皇さいめいてんのうは土木工事を多くおこなった天皇でした。

 

そのため、かりだされた人民は苦しみました。

 

その状況を理由に、謀反をそそのかされた人物がいます。

 

孝徳天皇の息子・有間皇子ありまのみこです。

 

有間皇子ありまのおうじ蘇我赤兄そがのあかえに今の政治が間違っていることを話されました。

 

それに心動かされた有間皇子ありまのみこ赤兄あかえに謀反の相談をしますが、赤兄あかえ有間皇子ありまのみこを裏切り、天皇に報告しました。

 

そのため658年、有間皇子ありまのみこは謀反の罪で殺されてしまいます。

 

 

ちなみに同じ年、東北へ進出するための策の1つとして、阿倍比羅夫あべのひらふが東北に派遣されています。

 

チェックしときましょう。

 

白村江の戦い

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水城城跡 全景(出典:Wikipedia)

 

660年、百済くだらから使者が来ます。

 

当時、百済くだらは唐と新羅に攻められていたため、日本に助けを求めたのです。

 

百済くだらを助けるために援軍を出すことを決めた斉明天皇さいめいてんのうは、みずから援軍とともに九州に行きますが、そこで亡くなってしまいます。

 

斉明天皇さいめいてんのうの死後、中大兄皇子なかのおおえのおうじはしばらく天皇に即位せず、皇太子のまま政治を行いました。

 

この、天皇がなくなったあとに皇太子や皇后が皇位につかずに政治を行うことを称制と言います。

 

 

そして663年、白村江はくそんこうで唐・新羅しらぎの連合軍と戦い、大敗してしまいます。

 

この戦いを白村江はくそんこうの戦いといいます。

 

この戦いで負けたことにより百済滅亡が決定的になりました。

 

このとき中大兄皇子なかのおおえのおうじが何よりも恐れたことは、唐・新羅連合軍が日本に攻めてくることでした。

 

そこで国を守るために以下の重要な2つのことを行います。

 

大陸に近い場所に防人 さきもりという兵隊をおき、とぶひという伝達システムを作った。

水城みずきや、大野城などの朝鮮式山城をたてた。

 

水城みずきは土を積み上げてつくったとりでのことです。

 

朝鮮式山城は百済くだらから亡命してきた貴族が技術指導をしたお城のことです。

 

また667年、都を飛鳥から近江大津京に遷都します。

 

天智天皇即位

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天智天皇(出典:Wikipedia)

 

668年、中大兄皇子なかのおおえのおうじは正式に天皇になりました。

 

これが天智天皇てんじてんのうです。

 

天智天皇てんじてんのうとなってから行った政策で重要なものは2つあります。

 

668年に近江令を完成させる

670年に最初の全国規模の戸籍・庚午年籍こうごねんじゃくをつくる

 

近江令とは中臣鎌足らが編纂した令のことです。

 

令は現在でいう民法行政法のことです。

 

この近江令は残っている史料が少なく、詳しいことはよく分かっていません。

 

そのため完成や施行を否定する説もあります。

 

 

そして即位から3年後の671年、天智天皇は亡くなります。

 

年表で確認!天智朝までの流れ

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飛鳥全景 岡寺から(出典:Wikipedia)

 

改新の詔が出てから天智天皇てんじてんのうがなくなるまでをまとめてみました。

 

参考になると嬉しいです。

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中大兄皇子はいざこざが多かった?天智天皇までの政治をかんたん解説!まとめ

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皇太子時代 −重要な政策3つ−

1)東北経営  

渟足柵ぬたりのさく磐舟柵いわふねのさくの設置、阿倍比羅夫あべのひらふを東北に派遣 

2)外交         

白村江の戦いで大敗国防強化

3)遷都         

飛鳥から近江大津宮へ遷都

 

天皇即位後 −重要な政策2つ−

近江令

庚午年籍こうごねんじゃく

 

いかがでしたか?

 

中大兄皇子は多くの政敵を死に追いやっていますが、その合間合間に重要な出来事が起こっています。

 

いつ何が起きたのか、歴史の流れを抑えることが大切です。

 

皇太子時代と天皇即位後に行った政策を頭の中で整理しておきましょう!