壬申の乱時に大海人皇子が兜をかけたとされる兜掛石(出典:Wikipedia)
天皇の権力を高めた戦いに、壬申の乱があります。
壬申の乱はズバリ、おじ・おいの権力争奪戦です。
ではなぜ身内同士で争うことになってしまったのでしょう?
今回の記事では「壬申の乱はどういう流れで起こったの?」「そのあとどのように政治が行われたの?」という疑問にお答えします。
これを機に、天武天皇の政治までマスターしちゃいましょう。
年表で確認!天武朝までの流れ
富本銭(出典:Wikipedia)
まず天智天皇がなくなってから天武天皇がなくなるまでの大まかな流れを整理しました。
ざっと確認してみてください!
天智天皇(出典:Wikipedia)
天智天皇はもともと弟である大海人皇子を次の天皇にしようと考えていました。
しかし息子の大友皇子が成長するにつれ、大友皇子を天皇にしたいと考えるようになります。
そして天智天皇は大友皇子を自身の後継者であることをだんだんと周りに示していきました。
こうして大海人皇子と天智天皇・大友皇子親子の対立はひどくなっていきます。
月日は流れ、天智天皇は病に伏せる身となり、自分の死期が迫っていることに気づきました。
そして大海人皇子を枕もとに呼び、こんなことを言いました。
自分の病気は回復しそうにないから、あとのことを頼む、と。
ここでのあとを頼むとは、自分が死んだら天皇に即位してほしいということです。
もし大海人皇子がここで天皇として即位することを引き受けたら、天智天皇は殺すつもりでいました。
中大兄皇子時代に邪魔者を徹底して排除してきた性格を考えると、納得がいきますね。
しかし大海人皇子は、事前に天智天皇の言葉に気をつけるよう言われていたので引き受けませんでした。
自分は体が弱いから天皇に向かないこと、出家して吉野で過ごすことを天智天皇に伝え、少ないお供を連れて吉野へ行きました。
しばらくして天智天皇は亡くなります。
天智の息子・大友皇子(出典:Wikipedia)
大海人皇子が吉野に移ってから約半年後、大友皇子が武器を集めていることを知ります。
それだけでなく、吉野に食料を運ぶための道もふさごうとしているという情報が入ります。
着々と戦争の準備がされていたのです。
それを聞いた大海人皇子はすぐに吉野から出発し、軍隊を東国から集めます。
有力な豪族たちは皆、大友皇子側につきました。
しかし地方豪族たちがついた大海人皇子が大友皇子の率いる軍に勝ちました。
この乱のことを壬申の乱と言います。
その後、大海人皇子は飛鳥に戻り天武天皇として即位します。
朝廷で力を持っていた豪族たちは大友皇子側についたため没落しました。
そのためこの乱で天皇の権威が高まりました。
天武天皇(出典:Wikipedia)
天武天皇は様々な政策を成しました。
まず豪族の私有する部曲をなくします。
ここで「あれ?部曲ってもうなくなってたんじゃなかったっけ?」と思ったそこのあなた!
鋭いですね!
以前の記事で解説したように、中大兄皇子が出した改新の詔で、豪族の私有していた部曲はなくすことにしていましたよね。
しかしその後、白村江の戦いで負けたことで豪族の反感が爆発することを恐れた中大兄皇子は、私有民を一部復活させました。
天武天皇はこれを完全になくしたのです。
天武天皇の政治を語る上で欠かせないことは、八色の姓を制定したことです。
八色の姓とは、天皇と関係の深いものから順番に8つの階級に整理したものです。
他にも、天武天皇は律令制度や国史の編纂を行ったり、中国の都城制を見習って日本で初めての都城である藤原京の造営を始めたり、日本で一番古いお金とされる富本銭の鋳造などを行っています。
しかしもともと体が弱かったこともあって、即位から13年で天武天皇はなくなります。
壬申の乱ってどうして起こったの?天武天皇の時代をかんたん解説!まとめ
天武天皇 - 重要な政策 3つ -
・部曲の全廃
・富本銭の鋳造
・八色の姓の制定
いかがでしたか?
多くのことに取り組んだ天武天皇ですが、特に覚えておきたい政策は3つです。
志半ばでなくなり、政策を施行する段階までいかなかったからです。
これらの政策は、天武天皇の意思を引き継いだ皇后の持統天皇やその孫の文武天皇のところで出てきます。
取り組み始めた時期と、完成や施行の時期が異なるものは、注意して覚えましょう。